Interview-水沢そら/イラストレーター 前編

北海道函館市生まれ。バンタンデザイン研究所ビジュアル学部卒業、MJイラストレーションズ卒業。書籍、雑誌の装画、広告、音楽関連のアートワークなど幅広い分野で活躍する中、個展も精力的に開催している。TIS公募2013年銀賞、同2014年銅賞、玄光社イラストレーション誌ザ・チョイス 2013/6月号入選(本秀康審査、同年年度賞入賞)、ギャラリーハウスMAYA 装画コンペ  2013年 MAYA賞受賞 など受賞歴多数。今回はイラストレーターとしての活動と、切っても切ることができない音楽との関係、これまでの自身のバンド活動について前編後編の2本に渡りロングインタビューを行った。
Interviewer-Miyapon/in the middle

OVERCOMER(2021年)
FIGHT WAR NOT WARS(2019)
地元のやつらに囲まれた(2021)
やわらかなとらわれ(2021)

現在イラストレーターとして様々な場所で活躍されていますけど、いつから絵を描いていたのでしょう か?

イラストレーターを意識し始めたのは高校生の時に進路を考え始めた時くらいからだったと思いますけど、小さい頃からチラシの裏に色々と落書きしたり、絵を描くのが凄い好きな子どもでしたね。絵本が好きだったんです。

今でも絵本を見たりすることは多いと言ってましたよね。

親が絵本とか児童小説なんかは無制限にたくさん買ってくれたんですけど、いわゆるファミコンとかテレビゲームはやっちゃダメ、買い与えないっていう家庭だったんですよ。でも自分としてはファミコンはどうしてもやりたいわけで、苦肉の策としてお菓子の箱をファミコンの本体に見立てて工作したものに、友達の家で遊ばせてもらったゲーム画面を思い出して自分で描いた絵に繋げたりして妄想で遊んでいたりしていましたね(笑)

厳しい教育方針の中、色々と編み出していたんですね(笑)

僕の母はいわゆる教育熱心なタイプの女性だったと思うんですけど、元々母自身も絵を見たり描いたりするのは好きだったみたいです。彼女がまだ若い時はananなどのマガジンハウス系や、他にも様々な雑誌が次々と創刊されていた雑誌文化の創成期で、様々な雑誌や媒体に実に色々なイラストレーターの方々が描いていて、イラストレーションブームもあったみたいで。そういうのがきっかけでイラストレーションが好きになり、僕が生まれてからも色々と洋邦問わず絵本を買い与えてくれたみたいです。

幼少期の絵日記

お母さんの血というか、影響があるんですね。

そうかもしれませんね。70年代には仲間と一緒に函館のタウン誌、ミニコミ誌って言うのかな?を作っていて、表紙を描いたり編集のお手伝いなんかもやっていたみたいです。『るっく』っていうタウン誌 だったんですけど。先日函館で『peeps』というとても面白いローカルマガジンを作っている方とお話しする機会があったのですが、『るっく』のこともご存じでびっくりしました。当時としてはある意味、先駆けのような存在だったみたいです。

お父さんも絵を描いていた方なんですか?

父はもう亡くなってしまいましたが、絵ではなくて音楽の方だったんですよね。シャンソン歌手だったんです。高校の時にどうやら芸能人になりたくて(笑)家出をして東京に出ていったみたいなんですけど(笑)。後年その頃の話を父に尋ねても、恥ずかしがって話してくれなかったので、僕もあまり詳しくはないのですが。

当時銀座7丁目に『銀巴里』という、とても有名なシャンソン喫茶があり、そこにもぐりこんでボーイさんの様なことをやっていたらしいのですけど、その時に美輪明宏さんに出会って結構可愛がって貰っていたみたいです。付き人みたいなこともしていたのかな?でも結局歌手になる夢は破れて函館に帰ってきてしまいましたが、まあそのおかげで僕が生まれました(笑)

美輪明宏さんとは、なんだかまたすごい話ですね。

僕が生まれてからの父は函館でシャンソンのお店や飲み屋などを経営しながら、たまに興行プロモーターみたいなこともやっていたらしいのですが、たしか自分が小学生になるかならないかぐらいの時に、美輪さんを函館に呼んでリサイタルをやったことは今でも覚えています。その時に僕も美輪さんにお会いしたのです が、有名人に会ったのが初めてというより、その時の美輪さんのイメージがとても印象的で、子供ながらとても鮮烈に記憶に残っています。

美輪明宏-喝采美輪明宏銀巴里ライブ(1981)

音楽の面ではお父さんに影響を受けたということでしょうか。

自分もバンドでボーカルをやっていたので、歌うってことは確かに父親からの影響なのかもしれないで すけど、のちのち好きになっていく音楽とかは間違いなく母親からの影響ですね。母は若い頃はビートルズが大好きな女の子だったみたいで、それ以外にもJanis Joplin、Ry Cooder、Joe Cockerなどのロックも 好きだったみたいです。あと僕が生まれてからはCyndi LauperやPrinceなんかも(笑)

そういえば確か僕が小学校3,4年くらいの時の誕生日に欲しかった玩具の他に彼女が自分で作ったミックステープもくれたんですよ。A面一曲目にヴァン・ヘイレンの『Jump』が入っていて(笑)B面には日本のバンド、 ルージュの『パフォーマー』ストリートスライダース『Angel Duster』なんかも入ってて。子どもだったんでロックがどうとかそういう話は母とはしませんでしたが。

なんだか素敵というかオシャレなお母さんですね。

でも母は音楽好きなはずなのに、なぜか家にしばらく音楽を再生する機械がまったく無い時期も長かったんですよ(笑)。家にレコードとかあったのにカセットしか聴けなくて。それで僕がCDプレイヤーをねだって買ってもらって、それで小遣いで初めて買ったCDがロボコップのサントラだったんですね。

当時、ロボコップの映画が観たかったんでけど、なかなか観ることが出来なくて、先にCDを買ったんですよ。きっとサントラを聴けば映画本編を観た気になるかなって思ったんでしょうけど、サントラは全部オーケストラの渋い感じのやつで(笑)。ちなみに今はサブスクで聴いてます。

オリジナル・サウンドトラック「ロボコップ」(1987)

今でもロボコップ大好きですよね(笑)

そうですね。一昨日も観ました(笑)。やっぱりロボコップは一作目が最高ですね。ポール・バーホー ベンが監督なんで、肉片の飛び散り方とかリアリティというか、残虐な描写がとことんすごくて (笑)。まあ2もそれ以降も別の映画として観る分には良いんですけど。2014年に撮られたリブートも観たんですけど、期せずしてロボコップになってしまったマーフィーの悲哀の表現など、オリジナルと比べると話の筋もさることながら、あれはロボコップのカラーリングが軍用ドローンみたいな黒い色になっちゃっててなんだかなとか思いましたけど…まあロボコップの話は止まらないんでやめますね(笑)

2までしか観てないのでそれ以降もちゃんと観ます(笑)。音楽活動については後編で色々と伺いたいと 思います。
絵については元々どこかで習ったりしていたのですか?

小さい頃は近所の絵画教室に行ってましたね。偶然なんですけど、その時の先生がのちのち高校の時の担任で。僕は軽音楽部と美術部に入ってたんですけど、担任は美術部の顧問もやっていて。凄くいい人だったんですけど、僕が部活サボってDollとかBurstなんかを読みまくってたいたら「お前は死体写真とか好きなのか?」って本気で心配されたりして(笑)

その後高校を卒業して、バンタンデザイン研究所に入学となるわけですよね。

そうですね。バンタンは専門学校なので試験は特になく、希望すれば誰でも入れるんですけど。当時は絵本作家になりたいという夢があったので本当は美大や芸大に進路を定めるべきだったのかもしれませんけど、受験勉強がどーーーーしても嫌だったんですよね。

親が教育熱心だったので幼稚園から進学の際はずーっと受験だったんですよ。それで高校からバンドもやっていたし、当時の自分にとっては『一番大事なこと=バンドをやること』だったので、そこで受験勉強をしてしまうとバンドが出来なくなってしまうのがどうしても嫌だったんです。まあ受験という厳しい現実から逃げたんですね。

当時としてはそのような心境だったんですね。それで東京に上京して来ることになると。

あと本当に恥ずかしい話、当時はアカデミックな美術教育を受けることに一切魅力を感じてなくて…。「そんなんパンクじゃねえ」みたいな。なんでもかんでもパンクに結びつけて。控えめに言って頭がおかしい(笑)

今でこそ、ちゃんとアレもコレも学んでおけば良かったと思うことばかりですが、まあこればっかりはもう仕方がないですね。結局いろんな理由をつけて自分で楽な方を選んで流れてしまったという事なのでしょうね。とはいえ絵を描きたいっていう気持ちは強くあったので、専門学校を選んだという感じです。あと単純に東京に憧れていたんでしょうね。

若い頃はそういうことは中々わからないですよね。今振り返ると僕も10代の時とか、自分に向き合えてないこと自体に気付いていなかった気もしますし、目の前のことしか見えませんでしたね

あと当時は美術系だけでなく、調理からファッションから音楽から色んな専門学校が流行っていたんですよ。雑誌を開けば色んな専門学校の広告がバーンと載っていて。そこに通えば皆んな明るい未来とキラキラ輝く都会の生活が手に入るっていう錯覚を起こしかねない様な(笑)

実際に当時の若者は憧れた人も多かったんじゃないですかね。まあ僕も完全にそのクチなんですけど(笑)。とはいえ、実際に通った当時のバンタンは面白い友人や講師と出会えて、今でも繋がりがある方々もいますし、そもそもそれから10年ほど経った時にイラストレーターをもう一度目指すのも、卒業制作のゼミの講師の方が最後の授業の日におっしゃった言葉をずっと覚えていたからですし。色々ありましたが、結果バンタンに通えて本当に良かったです。

BLOOM(2020年)

ではそこから以前より絵を勉強していくのですか?

いや、実はそうでもなくて(笑)。もともと函館でバンドをやっていたし、一緒に上京してきた仲間と東京でも新しいバンドを始めたんですね。それがGimmiesなんですけど。

で、バンドがどんどん楽しくなってきちゃって。ライブで客ウケが良くても悪くても、自分の曲を自分で演奏して聴いてもらうってのがとにかく凄く楽しくて。その時の自分にとっては、手っ取り早く承認欲求を満たしてくれるのが音楽活動だったんでしょうね。

たしかにHPのバイオグラフィーを見ると、上京してきてから絵の個展を始めるまで長い期間ブランクがありますよね。

そうなんです。結果的に上京してきてから10年ちょっとはバンド中心の生活をしていました。絵の方も大口を叩いていたわりに、学校を卒業した後は全くやっていなかったんですよね。

通っている時は専門学校を出れば、なんとなくどこかの誰かが僕を見つけてくれて「おーすごい才能だ」とかチヤホヤされてプロになれるのかなとか、そんな頭のネジが緩みまくった都合の良いことばかり漠然と考えてましたけど、そんなのあり得ないじゃないですか。才能もないですし。

なので2年で卒業した後は仕事はないし、そういう仕事を探そうにもスキルないので、どこにも雇ってもらえなかったし、そもそも大した絵も描いてなかったんでガクーンとなっちゃって。いや、至極当然な事なんですけど(笑)

絵に関してはそこで一度落ち込んでしまったんですね。

それでもバンドの方はライブに段々と誘われてきたり、レコードのオファーとか、ありがたい話も増えて来て。正直その時に楽しかった方に飛びついたっていうのはあったんだと思います。辛い現実からはとりあえず目を逸らしましょうと(笑)。で、そういう生活を送っているとだんだんと絵も描かなくなってきてしまって、色々なバイトをフラフラしながらその日暮らしのバンド中心の生活をしていました。

まあ、音楽を仕事にしようと思ったことは一度もありませんが、自分なりにとても真剣にやっていましたし、自分がやっていることを信じているというか、そんな気持ちはありましたね。まあ、そう思わないとやってられなかったからかもですけど(笑)

The Gimmies Last Live photo by Yada(2014)

20代の頃にほとんど絵を書いていなかったというのが意外です。

全く描かない、絵の具ひとつ、筆の一本すら家にないって時期もしばらくありましたよ。その時は本当に知らない音楽を聴くことと、それをバンドに活かすことが人生の最重要事項でしたし。 なので30歳超えて「やっぱり絵を描きたいなー、プロのイラストレーターになりたいなー」ってなった時、周りの人にとって当時の僕は「100%バンドの人」だったので最初は全くの冗談か、もしくは気まぐれか何かだと思われていましたね(笑)

自分がそらさんと知り合いになった頃は既にイラストレーターとして活動していましたし、20代もずっと描いていたのだと思っていましたので意外でした。

再びそう思うようになったきっかけとしては、それまで何も考えないで楽しくバンド活動をしていましたけど、ある日このまま行くと自分の人生って実はかなりヤバいのかもなってふと気づきまして(笑)。僕は正社員というか会社勤めの経験も一度もないですし、特に何か秀でているスキルもない。『あれ、ちょっと待てよ、俺このままだと自分の人生どうなっちゃうんだろう』って頭によぎったことがあって。

それからしばらく色々と考えて、その時に自分の責任で、ちゃんと一生飽きずに最後まで向き合うことができる仕事はイラストレーターしかないのでは。と、ふと思ったんですよね。人によってはたとえば美味い料理を作ってお店で出すとか、プログラミングとか建設業とか介護、皆それぞれ色んな仕事をしながら社会と関わってますけど、その当時の自分には何もなかった。だから僕も自分なりの何かで社会とのしっかりとした接点が欲しかったんだと思いますね。そしてそれが自分にとっては絵を描くことだったんですね。

きみがみているゆめをみている(2020)

バンドを熱心にやっていたけど将来生活がヤバいかもなってなったら、普通は堅い仕事に行く人も多いと思うんですが、イラストレーターという厳しい世界を選んだのはなぜですか?

年齢も30歳でしたし、その段階でいわゆる堅い仕事についたとしても、やりたくない仕事だと不満ばかり募って結局辞めて振り出しに戻っての悪循環に陥るだろうというのは、それまでの自分の経験でわかっていたので(笑)振り出しに戻るどころか、どんどん時間は経っていきますし。逆にもう自分にはイラストレーターしかないなって思ったし、まあ、若干どこかで自分はなんとかなるんじゃないかなって根拠のない意味不明な自信もありましたね(笑)

でも一番の理由は自分がバンドをずっと長く続けるために、 一生の仕事をきちんと見つけたいってのがあったんです(笑)。やっぱりバンドが一番だったので。 全くの余談ですが、一昨年観た映画『レディオ・バードマン/ディセント・イントゥ・メールストロム』 でDeniz Tekも同じような事を言っていてニヤリとしました。

DESCENT INTO THE MAELSTRO(2017)

2000年前後とかはアンダーグラウンドでも海外を周って生活しているツアーバンドもある程度いたかと思いますが、そういう風にやっていこう、とかはなかったのですか?

その選択肢は自分はなかったですね。もちろん憧れたことはありましたけど、それが成り立つのはレコードのセールスや知名度だけじゃない、生活環境など本当に色々な条件がうまく重なるような本当に一握りのバンドだということも知っていましたし、自分はほとんど日本にいない生活はそもそも嫌だなーっていうのもありました。逆にミヤポンはそういうバンドになりたいと思って活動してたこととかはあったの?

それは僕もなかったですね。そういう風に活動をしている日本のバンドは欧米のバンドよりいろんな面で大変だと思いますし、すごいと思いますけど。

私見ですが、日本の社会構造だとアメリカやヨーロッパなどと比べて海外ツアー、長期ツアーから帰ってきたときの生活が厳しい面も多々ありますしね。

洋楽ベースのインディーのバンドだと実力があっても日本だと中々評価されなかったり、収入面でも厳しいので海外を周っている、ということも多いと思いますしね。
では、また本格的に絵を始めるにあたってはどのようにスタートを切ったんですか?

最初は絵描きになるわ!俺イラストレーターになるわ!って思ってから一通りの画材を揃え直して、 一人で描いていたんですけど、やっぱり技術的なことやセンスも含めブランクを感じましたね。何もやってこなかった10年は相当重かった(笑)

そもそもバンドばっかりの生活だったので絵の話をする友達すら当時はいなくて。出来た絵もごく親しい間柄の人しか見せる相手がいなくて…そうなると皆「良いね」「すごいね」とは言ってくれるんですけど、まあ身内ですし、そう言ってもらえるのは当然のことじゃないですか。

それは音楽とかでもそうですよね。友達としての優しさを感じたりもするんですけど(笑)客観的な評価や批評となるともちろん違ってくるというか。

そうですね。それでちゃんとした反応をやっぱり見たくて。イラストレーションとして自分の絵ってどうなんだろうって思って。どうしたらいいかなって色々調べてたらイラストレーション塾に行くのが良いんじゃないかなって思いついて。いくつか候補はあったんですが、MJイラストレーションズに入塾することにしました。

STILETS(2021)

MJイラストレーションズはいわゆるカルチャースクール的な絵画教室とは違いますよね。プロを目指す方が通う画塾なんですか?

最近どんな感じなのかはわかりませんが、僕が通っていた時は全くそんな感じじゃなかったですよ。もちろんイラストレーション、当然ですが商業美術の世界なので、通っている人間も絵を仕事にしたい、プロのイラストレーターになりたいっていう気持ちはみんな持っていたと思いますけど、それ以上に場の雰囲気というか、自分にとっては居心地もすごく良くて。

どれくらいのペースで通っていたのですか?

月2回隔週で通ってましたね。夜の7~9時の2時間で。別に絵の技法やテクニックを教えてもらうわけじゃなくて、課題に合わせて皆で描いた絵を持ち寄って、先生に講評してもらったり、仲間同士であーだこーだ意見を交わすのがメインだったんですよね。で、授業の後は自由参加の飲み会があって。そこでもまたイラストレーションの話をして。絵の話をしたくてしたくて堪らなかったので、天国でしたね。

ということはある程度描ける人たちが行く画塾だったんですか?

そんなことはないですよ。それこそ美大卒の方もいれば、元々単なるイラストレーションファンで自分でも描いてみたいなって思って始めたばかりの方まで様々でした。年齢も10代〜50代までと幅広く。

画塾としての卒業は自分のタイミングでするんですか?

そうですね。2年通えば卒業を名乗れるんですけど、僕は3年半通ってました。すごく楽しい時間でしたね。

でもサラっと言ってましたけど、10年近くブランクがあってその後に比較的短期間でスタイルを確立できるのがすごいですよね。そらさんはバンドもそうでしたけど、たとえば技術の習得や集中して取り組む姿勢だったり、創作全般に対してパワフルな印象があります。

イラストレーターになろうと思ってからの2年~3年半は今のところ今までの人生で一番集中力が高かったかもしれませんね。それもあって割と早い段階で仕事もいただいて、そこから今に繋がる流れができましたし。

あとやっぱりさっきも言ったように、仕事をちゃんとしてバンドをやりたいってのも強い動機になりましたね(笑)。レコード買ったり、バンドの練習したり、ライブを観に行くのも当然お金がかかりますけど、そういう生活ができなくなることが何よりも怖かったっていうのがありますね。それで仕事として何ができるの?ってなった時に、もう自分にはイラストレーターしかないだろうなって思いこんで、 本気で目指しました。

BOYS DON’T CRY (2012)
玄光社Illustration誌 The Choice 入選作品

昔、ライブハウスで話してた時に「バンドやるために絵を描いてるのかもしれない」って言っていたのを覚えています(笑)

残念ながら今は以前ほどバンドはできてないけどね(笑)。でも絵を描く仕事はすごく楽しいですよ。自己表現としてのアートを見たりするのも好きなんですけど、それより自分は依頼を受けて、自分の持っ てるセンスで色んな媒体に絵を描いて、第三者に伝えていくっていう仕事が好きですね。もちろん個展とかはまた別ですけど、普段の仕事はそういう意味でもやりがいを感じますね。

でもそらさんのようなイラストレーターの方たちの絵の仕事は、作家性ありきの仕事ですよね。その人ありきで依頼してるというか。その点では依頼されたものでもアート性や自由度が高そうな印象があるのですが。

そうですね。MJイラストレーションズに通ってた方は皆さんある程度そうだったと思います。たとえば自分が「電化製品の説明書に載せるようなイラストを描いてほしい」って言われても絶対に良いものは描けないですから。また全然別の才能というか。

なので僕は自分にできることを一生懸命やっているだけという意識ですね。自分が出来ない仕事は僕が無理してやら なくても誰か他にできる人がいるので、その人に任せるべきです。でも本当に楽しく仕事ができていますね。

自身の作風に影響を受けたり、好きな作家の方について教えてください。

日本の作家だと、伊坂芳太良さん、宇野亞喜良さんの影響は大きいですね。あと意外かもしれません が、小村雪岱も。海外だったら、Henry Darger、Raymond Petibon、Rita Ackermann、色彩感覚的に James McMullan。最近だと数年前に友人から教えてもらったAmy Cutlerという作家も好きですね。

あと直接的な影響ではないですけど、数年前に福島県の奥会津で仕事をした時に地元の木版画作家の斎藤清さんの作品を偶然見ることができたんですよね。もうお亡くなりになっている方なんですけど。その人の刷りだす世界がすごく素敵で一目惚れしましたね。きっと僕の製作プロセスはある種、版画に近いので、シンパシーを感じてしまうことが多い気がします。他には版画作家ですと池田修三も大好きです。

斎藤清-会津の冬(1970)

あとはやっぱり一番はイラストレーターの仲間達ですよね。街を歩いてても広告や本などで彼らの仕事は自然と目に入りますし、お題に対してこういう解釈をするんだ!って思ったり、気づきがあって本当にたくさんの刺激を受けていますね。皆投げられたボールに対しての打ち返し方がカッコいいんです。

好きな音楽からインスピレーションを受けて作品を描くことはありますか?

音楽を聴いて、というより自分でバンドをやっていたことが大きいかもしれないですね。自分が最近好きな奇妙な音楽の独特の間の取り方とか、そういう違和感というか、ちょっと変な感覚を大事にしてい ますね。

たしかにそらさんの絵からは音楽的な雰囲気を感じますね。音楽が聴こえて来る、というより視覚でなにか音楽的なものを感じるというか。説明が難しいんですが…たとえば美術だったらルドンとかカンディンスキーもそういった音楽的なものを感じたりする絵だと思うんですけど。

サボテン評議会(2019年)

そう感じてもらえてるとしたら、とても嬉しいですね。でもここまで音楽にのめりこんでるわけだし、 影響がゼロだったらおかしい(笑)

確かに全くなかったら逆に不思議ですね(笑)。 現在は水彩画が中心ですが、初期は貼り絵の作品もありましたよね。そのあたりについてもこだわりはありますか?

画法に関してのこだわりは今はそんなにないです。キャリア最初の方は貼り絵で制作していたんですけ ど、だんだんとやりたい表現と貼り絵の技法にギャップというか、ある種の制限を感じることが多くなり、いったん全てをフラットに戻そうと思い、数年前からはいわゆる「普通に」描いています。

元々は貼り絵を評価して頂いて、そこから仕事に繋がっていったという経緯もあったので、当時は技法を変えることに少なからず不安もあったんですけど、自分が違和感を感じているのは無視できないですし、まあなんとかなるだろうって。なんとか今も仕事は頂けていますけど。

個人的にですが、僕は「自分はこういう人間だから」とか「こういうスタイルの人だから」とか限定してしまうことはもったいないと考えています。もちろんそれが良い結果を産むことも、そして失敗することもたくさんあるとは思いますけど、自分が気持ち良いなって思うやり方が僕には向いてるんだと思 います。

自分などは個展でそらさんの絵に触れる機会が多いですが、本や雑誌でもたくさんの仕事をされていますよね。

そうですね。元々本や雑誌の挿絵など紙媒体の仕事が僕は多いですね。最近だとスコットランドの作家 Ali Smithの四季4部作「秋」と「冬」の表紙を担当しました。残りの「春」、そして「夏」も担当する 予定です。四部作とはいえ、それぞれが独立したストーリーで、どの作品から読んでもきっと大丈夫だ 思います。

Ali Smith-秋(2020)
Ali Smith-冬(2021)

2016年にイギリスがEU離脱を決めたことをきっかけに書かれた作品で、根底に流れている テーマは、昨今の過剰なグローバリズムへの警鐘、多文化、多様性、人々の分断、レイシズムなどがテーマになっていると僕は感じます。とはいえ固い話ではなく、ある種神話的というか、ファンタジー要素を感じる表現でもあり、とても面白い本でした。このシリーズで装画が描けて本当に良かったです。

他には最近の仕事として、洋菓子のブランドの「ネコシェフ」のアートワーク全般を担当しました。 自分にとっては珍しいタイプの仕事で、コロナのこともあり、リリースまで色々と大変でしたが、これも刺激的な仕事でしたね。

ネコシェフのアソート缶は飾る用にも欲しかったので買いました。お菓子もどれもおいしいですね。 音楽関係では知り合いのLPやコンピレーションのジャケットを描いていますよね。僕も以前やっていたバンドのPinprick PunishmentでTシャツをデザインしてもらいましたし。

そうですね。他にもEpisode Sounds からリリースされたFrantic StuffのLP、KiliKiliVillaのWhile We’re Dead.: The First Yearコンピレーション、Not WonkのTシャツなどを担当しました。あとは海外のバンド も一点描いてます。結構前に描いたのにまだリリースされていませんが(笑)。でも以前は「パンクが好 きなのに、なんでこんなかわいい絵描くの?」とか言われたりしたこともよくありました(笑)

PINPRICK PUNISHMENT-Tshirts
Frantic Stuffs – Last Wave(2015)
V.A. While We’re Dead. The First Year(2015)
Not Wonk T-shirts

かわいいですけど、やっぱり独特の冷たさだったり繊細さがありますし、むしろパンクっぽいなと僕は思いますけどね。一時期は結構残酷なモチーフを使用していた時期もありましたよね。2017年の個展の時だったと思うんですが。

覚えていてくれてありがとうございます。確かあの個展は、あの時期は自分なりに自分のセンスの範囲を測るというか、実験をしてみたんですよね。どこまでそういった表現を自分の絵として出して行けるのかなって思ったんですけど、ちょっと迷走気味でしたね (笑)。もちろんああいったテーマは今でも好きだし、あの時はそれを表現したかったのでやってみたんですが。

チャレンジしてみたかった作風ということですね。でもたしかに絵がすごく良くても、テーマ的に雑誌の表紙などには難しいものだったかもしれませんね(笑)

そうですね、そりゃ駄目だろうなと(笑)。でもやってみないとどうダメなのか、それすらもわからな いし、だから結果としてやってよかったなって本当に思いますね。個展は自由なので。

今は貼り絵を止めてから三年くらい経つんですけど、実はその間色々と「普通の描き方」を試行錯誤していたんですよね。それでようやく去年11月の個展で自分が納得できる形で着地できたっていう実感持つことができて。なのでしばらくはこの方法で続けていくんだろうなって思っていて、そしてこれからそれをどう伸ばしていくかが楽しみです。自分で自分のパロディはやりたくないので、常に新鮮でいたいと思っています。

後編(音楽活動)につづく