Interview-水沢そら/イラストレーター 後編 音楽活動-The Gimmies,Wotzit
Interviewer-Bisco/Episode Sounds,
Murakami,Miyapon/in the middle
Gimmiesの2005年7月のオーストラリアツアーでのラジオライブ音源。当インタビューの際に、そらさんが過去の資料を探していて偶然見つけた(!)とのことで、日本未公開の貴重な音源を今回提供していただきました。是非、当時のGimmiesの熱気を感じながらインタビューを読んでみてください。
Track List
1.STICK IT AROUND THE BEND/00:00-03:56
2.ALTERNATIVE MAINSTREAM/03:57-08:07
3.LET’S GET A MOVE ON/08:45-12:14
4.GOTTA KEEP COMING/12:19-17:29
5.LIVIN’ ON THE 16 SHADOWS/18:11-21:03
*前編/イラストレーターについての活動のインタビューはこちら
そらさんにとってバンドや音楽は欠かせない要素だと思うので色々聞きたいのですが、東京に来る前の函館ではどのような音楽聴いていたのですか?
自分が高校生の時はまだインターネットも一般的ではなかったですし、元々は「パンクって音楽があるみたいだよ!」ってところから始まり、そのうち仲間が詳しい先輩におすすめのバンドを教えてもらって、それをさらに我々に教えて、だんだんと知識が広まっていく…みたい感じはありましたね。
あとは好きなバンドのサンクスリストに載っているバンドで名前が気になるのを買ってみるとか。地元は雑誌のDollも当時は駅前の本屋に数冊程度しか入荷しないので、元々購入していたであろうハードコアの方々と先を争うように買っていたんですけど(笑)。雑誌では音はわからないから写真とか見てこれかっこいいんじゃないかなってのを、Dollの広告に載っているレコード屋から仲間と一緒に送料を浮かす為に共同で購入したりしていましたね。
それこそ昔のパンクファンのディストロ的なやり方ですね。
よく覚えてるのは、千葉のDROPS RECORDはDollの広告に丁寧なコメントとかレビューが入ってたのでそれを見て信頼できるなと思ってたんですよ。それで当時ガレージパンクって言葉が気になってて。パンクって言葉は知ってたんですけどガレージパンクって何?って。
それでDROPS RECORDに電話して「ガレージパンクのいいやつ3000円で見繕って送ってください」って注文したんですよ(笑)。そうしたらTeengenerateのSmash HitsとBack from the Grave, Part.1を 送ってくれて。昔はメールとかもないしそういうことをしてくれるレコード屋さんもありましたね。
友達もみんなそれぞれ色々とQueers、Screeching Weasel、PARASITESなんかのポップパンク、 REGISTRATORSとか*CHLOROFORM周辺のバンドとかハマっていって。それと同時にSLANG、BORNSCRATCHとかTHUGS、COWPERSなんかの札幌のバンドもよく聴いていました。ヒップホップにはまるやつもいましたね。それぞれが貪欲でお互い買った音源を持ち寄って、あーだこーだいったりカバーしたりしてましたね。
*CHLOROFORM-90年代中頃にREGISTRATORSらを中心として催されていたライブ企画。70s punk、特にKilled by Deathなどに代表されるオブスキュアなパンクロックに影響を受けたスタイルのバンドが多く出演していた。出演バンドは海外からの評価が高いバンドも多く、それらを収録したオムニバスLPもMANGROVE からリリースされている。当時の日本のパンクロックシーンに新たな価値観を与え、以降のバンドにも影響を残した。
昔から不思議と北海道は独特なバンドも多いですし、プロミュージシャンになる人も多いですよね。
そうかもしれませんね。最近BLUE NOTE TOKYOでもライブしてたJINTANA & EMERALDSっていうバンドのJINTANA君は高校生の時の最初のバンドのメンバーなんですよね。彼はパンクは好きじゃなかったんで途中で辞めちゃったんですけど、今でも友達ですね。
それでその後絵を学ぶために函館から東京に上京しますが、東京に来てすぐに自身のバンドのGimmies を始めたんですよね?
そうですね。地元の音楽仲間の中にも進学で東京に行くやつが何人かいたんですよ。それで実際に東京に出てきたはいいけど、しばらく経ったらすぐに暇というか持て余しちゃって。みんな友達もできないし。
それで高校の同級生だったカワベと、じゃあバンドでもやる?ってなって結成したのがGimmiesだったんですよ。最初は3人編成でした。東京に来たら色んな音楽の友達が出来てそういう人とバンドやるのかなって思ってたんですけど、意外とそういう風にもならなくて。
では元々は「東京でも絶対バンドがやりたい!」というわけではなかったんですね。
自分に関してはそうですね。その時は絵のために上京してたので。もちろんバンドはやりたいって気持ちはあったんですけど。
3人の時代があったのは知りませんでした。
ベースはカワベでドラマーは僕が専門学校で知り合った同級生で、やったことないのに無理矢理ドラムで入ってもらって。3人で一年くらいやってたんですけど、そのドラムがデモをレコーディングする時にバックレちゃって。それでその後ずっと僕と一緒にバンドをやることになるジョージがドラムで入ることになったんですよね。そのタイミングでカワベは元々ギターの人だったのでパートチェンジして、ベースも函館で同級生だったシュウちゃんに入ってもらって4人体制になりましたね。
ジョージさんはそのタイミングで入ったんですね。初めてジョージさんのドラムを見た時、日本人離れしているパワーとノリが衝撃でした。
ジョージも函館近郊の街の出身で年齢は一個下だったんですけど元々友達だったんですよ。で同じ専門学校に通ってて。これは余談なんですけど、後々ジョージのお母さんとうちの母親が一時期同じ高校の同じクラスだったって知ってめちゃくちゃビックリしました(笑)
ある時ジョージのお母さんが「あんたがバンドやってる水沢君って、私の同級生の息子さんじゃない?」ってなって。うちの母親は途中で転校しちゃったみたいなんですけど、熱狂的なビートルズマニアの女学生で印象に残ってたみたいですね(笑)
すごい偶然ですね。二人の固い絆というか、ある種の因縁を感じます(笑)。初期のGimmiesはライブはどのようなシーンでやっていたのですか?
Keen Monkey Work、Coastersride、LOOKALIKES(DEMO2本と一枚のコンピレーション参加で解散してしまったバンド。その後にメンバーがバンド活動をすることはありませんでしたが、当時の自分にとってはとても印象的なバン ドでした)が中心になってやっていたシリーズギグのNO BRAINSっていう企画が新宿JAMであったんですけど、当時の自分たちはその辺をウロチョロしてましたね。でも彼らは神奈川とか東京の人たちで、皆年齢的にも一学年くらい上のバンドだったから、仲間に入れてもらいたかったんですけど、なかなか輪の中に入れなくて(笑)。それでもたまにライブには呼んでもらったりして。
当時はCHLOROFORMが凄かったじゃないですか。その影響をどっぷり受けて、当時の自分も若くて何もわかってなかったんですけど70sパンク、KBD嗜好みたいなバンドを目指してました。あの頃のCHLOROFORMの人たちって70sパンクとガレージパンクとの線引きを明確に持っていたんですよね。それが美学というか。
そういうのも込みで、こっちはぽっと出の田舎から出てきたばかりの子供だったし、なんか「よくわからないけどとにかくカッコいい!」みたいな憧れがあって。「この人達はわかってる」みたいな感じで(笑)。多分ビスコはその感じわかると思うけど(笑)
そうだね。独特の空気感があったよね。
あの頃のバンドってなんていうか…僕の地元は函館なのでハードコアも盛んで、そういったバンドの怖い感じとかもカッコよかったんですけど、それとはまた何か違う尖った緊張感がありましたね。
とにかくCHLOROFORMというシリーズギグには出演しているバンドはもちろん、「場」の雰囲気含めて、トータルで底知れない魅力があって多分に影響を受けました。東京へ来て1、2年くらいは CHLOROFORMはもちろん、CHLOROFORMを意識したであろう、当時多くなりつつあったそういった趣向のライブにばかり行ってましたし、どのライブでもすごく刺激を受けて楽しかったですね。
その中でも、自分にとって身近な所ではNO BRAINSを企画していたCOASTERSRIDEというバンドが僕はすごく好きだったんですけど、彼らはある時から曲がロックンロール寄りになっていったんですよね。元々は確かVACANT LOTやDEVIL DOGS等の影響から始まったバンドだったはずだからそこは不思議ではないんですけど、メンバーだった三浦さんに最近どんなの聴いてるんですか?って聞いたらMC5とかStoogesとかって言っていて。
自分ももちろん元々そういったバンドは好きだったんですけど、あくまで知っていて当然のロックの嗜みの延長線上にいた存在というか、そういえば最近全然聴いてなかったなって思って改めて聴き直したら素晴らしさを再発見して。
ちょうどその時にGimmiesもメンバーチェンジがあったんでバンドの演奏力が格段に向上してたんですよね。それでいっちょ試しにMC5のカバーをやってみたら、その時はすごいかっこいいバンドになった気がしたんですよね。気のせいだったとも思うんですけど(笑)
で、自分たちもこういう方向性、パンクロックというより少しレイドバックした感じでやってみようかってなって、そこで初めて後々のGimmiesの基盤が出来上がったんだと思います。もしかすると他のメンバーからしたら「それは違う」って言われるかも知れませんが、そこは20年以上前の話なので (笑)
そのスタイルになってから音源のリリースも徐々にしていって、海外ツアーにも行ったりと活動的になっていったということですね。最初のシングル『Till You’re Down』はKOGAから出していますよね。
そうですね。当時KOGAの古閑さんから話をもらって。元々はKOGAがCOASTERSRIDEをリリースしていて、その流れで僕らも声をかけてもらったという流れだったはずです。KOGAは高校生の時に愛聴していた『Pop Goes The Weasel』 っていうTeengenerateやSamantha’s Favourite、New Bomb Turksなんかが入っていたコンピレーションをリリースしていて知っていたレーベルだったので「じゃ、お願いしよっか」って話になった気がします。
そしたらその『Till You’re Down』がMaximumrocknrollのパンクとかロックンロール系の当時のレビュワーのほとんどがトップ10に入れて取り上げてくれて。そのタイミングで海外からもリリースの話がいくつか来るようになって、その時最初にドイツのScreaming Appleから連絡をもらったので次の7インチを出しました。
すごいですね。ある意味理想的なリリースの流れというか。
ただ、Screaming Appleのシングルは音がすごく悪くてそのことは後悔してるんですよね。向こうでやってもらったマスタリングも全然ダメなんだけど、そもそもの録り音が中途半端で酷かったんです。せっかく好きなレーベルからのリリースだったわけだし、もうちょっとちゃんと録っておけばよかったなって。でも やっぱり僕はTeengenerateが好きだったので、あの人たちもこういう感じだったのかな、こういう風に海外からリリースしていったのかなって思ったりして嬉しかったですね。
やはりTeengenerateは大きい存在だったんですね。
少なくとも僕にとってはそうですね。年齢的にもTeengenerate はリアルタイムでは体験できなかったん ですが、ずっと杉山兄弟に憧れていましたね。今でも好きですし。
でもそういう風に影響された人は当時たくさんいたと思いますよ。97年に下北沢251で行われたEstrus Records救済ライブでのTeengenerateの再結成ライブは僕も観れたんですけど、メンバーのカワベはバイト先に休むなって言われたから仕方なくバイト先ぶっちぎってライブ観に来てましたし(笑)
*Teengenerate 再結成 at 下北沢251(1997年)
でも当時はそういうテンションでライブ観に行ってたってのは確かにありますね。それくらい盛り上がっていたというか。
そうですね。TeengenerateとかREGISTRATORSなど上の世代のバンドの人たちが海外からのリリースを切り拓いたのがあったから、その後の世代の僕らのような日本のバンドも海外の人が面白いと思ってくれたっていうのはかなりあると思いますね。
たしかに当時の日本のガレージのバンドのリリースの多くも海外からでしたね。 そういえば最初の2枚の7インチシングルの写真は綱島R(アール)のモヒ君が撮った写真ですか?
そうそう。モヒ君は僕がまだ東京に出て来て1週間くらいの時に下北沢のユニオンでレコード見ていた ら彼が急に話しかけてきたんですよ。当時高校生だったと思うんですけど「お兄さん、ガレージパンク のいいレコード教えてくださいよ」って無表情で聞かれてすごい怖くて(笑)
で、自分もまだ全然詳しくないし、とりあえずRip OffsとかDevil Dogsとか教えたら連絡先聞かれて。それでたまに遊ぶようになって、初期Gimmiesのドライバーもやってくれてたりして。彼のお父さんから5000円くらいで車も買いましたね。二代目バンドワゴンです(笑)
でもネットがこれだけ普及する前の若い人ってTシャツとかを見て話しかける文化とかありましたよね。今もまだあるのかもしれないですけど。あとはDollにメンボを載せたら、他県の同世代の知らない人から電話がかかってきたりとか。
そうですね。高校の修学旅行で7”を買ったBUTTER DOGっていうバンドに、当時地元でやっていた自分のバンドのデモテープを送ったら、実家に電話かけてくれて。後々友人から聞いて知ったのですが、たぶん今レーベルのWater Slideを運営している方だと思うんですけど。
自分はすでに東京に出てたので母親が電話を受けて、しかも結構時間が経ってからそのことを僕に伝えてくれたんですけど、当時なんかそれが…親が連絡を受けたっていうのがすごく気恥ずかしくて(笑)。返事をくれたのはめちゃくちゃ嬉しかったんですけど、時間も経ってしまっていたし連絡先もわからなくなってしまい、返事を返せなかったんですよね(笑)。なんだかんだでWATER SLIDEの方とは未だにお会いしたことないんですけど、いつか会えたら嬉しいですね。
10代の時はそういうの恥ずかしいですよね(笑)。昔はネットも携帯もなかったし、家の固定電話の番号を載せるしかなかったという(笑)
そしてシングルの後はアルバムをリリースしていますよね。
そうですね。Star Jets Recordsからリリースしました。The Havenot’sの青木さんのレーベルだったんで すけど、声かけてもらって。一緒にツアーも回って楽しかったですね。
その後にアメリカDionysus Recordsから2ndアルバムが出るタイミングで海外ツアーも決まってたんですけど、ベースのシュウちゃんの親父さんの体調が悪くなって、家業を継ぐために函館に帰ることになったんですよね。それで新しいベーシストに入ってもらってオーストラリアとアメリカに行きましたね。
オーストラリアで2週間ライブして日本に帰ってきてもライブやって、その1週間後にはまたアメリカに行って2週間ライブするっていうハードな日程だったんですけど、バンドを全力でやっている感じもしたし楽しかったですね。
オーストラリアはどういうきっかけで行くことになったのですか?
たしか2002年か2003年に*Mach Pelicanの日本ツアーがあったんですけど、その時にGimmiesの企画で1 本ライブをやったんですよね。そしたらメンバーのトシ君と仲良くなって。
*Mach Pelican- 1996年結成。QUEERS, BUZZCOCKS, HARD-ONSらとも親交が深かったオーストラリア在住の日本人Kei、Atsu、ToshiによるRAMONES直系ポップパンクバンド。2007年解散。
彼はのちにメルボルンで居酒屋事業を始めて向こうではかなり有名なお店になるんですけど、当時は日本のバンドに特化したツアープロモーター業をやっていて、GUITAR WOLFや5678’sなどをオーストラリアに呼んでたんですよね。それでGimmiesも呼んでくれて。
その時に向こうで、名前は忘れてしまったけどCelibate RiflesのKent Steedmanがやっていた別バンドとも一緒にライブをやる機会があったんですけど、彼はライフルズで日本に来たがっていて呼んでくれないかと相談を受けました。 僕はライフルズのファンだったし、個人的に海外のバンドを日本へ招聘することにも興味があったので引き受けたのですが、そのことが後々僕がオーストラリアのバンドをいくつか日本に呼ぶことへと繋がりました。
Celibate Riflesの新宿レッドクロスでの来日ライブは観に行きましたね。
ボーカルのDamienは咽頭がんで数年前に亡くなっちゃったんですよね。Celibate Riflesの1stシングルに『Kent’s Theme』って曲が入ってるんですけど、その曲はギターソロがマルボロのCM曲をオマージュしているのですが、その反面歌詞は「若者タバコ吸い過ぎ、広告に影響受けすぎ」っていう内容なんですよね。
で、Kentいわく、あの曲はDamienに向けて書いたようなもんだと言っていて、実際にDamienは日本に来た時もマジかってくらいタバコ吸っていましたね。日本はタバコが安いって1日3箱くらいパカパカ吸ってるもんだから、ライブの時にはもう喉が完全にガッサガサに枯れちゃってて。それでライブ直前に僕に「今日の俺は喉が枯れてるから本気のライブはできないけど、皆楽しんでくれって言ってきてくれ」って言うんですよ(笑)。「お前の責任で最後までやり切れ!」って本気で怒ったのを覚えています(笑)
まあ本当に好きで観に行った人はボーカルの声が出ないのすら気にしないみたいなとこもありますけどね(笑)
僕は大好きなバンドだった分かなりショックでしたけど(笑)。ツアーに話を戻すと、オーストラリアは色々面白かったですけど特にパース/フリーマントルに行ったのが印象深かったですね。すごい綺麗な街で。ボン・スコットのお墓もあったんでそこに行ったりとかして。
それでまあ自分たちがフリーマントルでライブやった日の話なんですけど、本番前のリハが終わって楽屋に戻ったらなんかマッシュルームカットの怪しいおっさんがコソコソと僕たちの酒を自分の容器かなんかに入れてたんですよね。オーストラリアではほぼほぼ楽屋に出演者用のタダ酒がドブ漬けみたいなものに入れて置いてあって、その酒を明らかにおっさんが盗んでいて(笑)
それで後ろから「ヘイ! 何してんのお前?」みたいにキツめに英語で言ったら、ビクっとしてて。現地のコーディネートも来たから「この人酒盗んでたんだけど誰なの?」って聞いたら「VictimsのJames Bakerだよ」って(笑)
まさかの出会い方ですね(笑)
それで僕らが驚いてたら、彼もニヤッとして「そうなんだよ」みたいな顔をしてきて(笑)。それで「この酒飲んでいいのかな?」ってモジモジしだして(笑)。それで僕たちもバカなんで「イエーイ!」みたいになって一緒に飲んで(笑)。色々当時の話聞かせてもらったりして盛り上がったんですけど。結構いい話でしょ(笑)
いい話ですね(笑)。向こうはレジェンド的な人がわりと普通に客とかで遊びに来たりしてますよね。
彼も普通にロックとかパンクのライブはフラッと観に来たり飲みに来たりって感じだったみたいですね。James Bakerもアル中、酔っ払いで有名だったみたいでしたけど、それ以上に地元のバンドの人とか音楽ファンに心底愛されてる人でしたね。それ以外にもたくさんのレジェンドたちがその辺に普通にいて驚きましたね。
それはパースに行かないとできない体験ですよね。
そうですね。あと車で*Eastern Darkが事故った場所も通りましたね。周りは牧草地帯で、本当に何も無い一本道でしたね。ライブ終わってトンボ返りした帰路の途中だったって聞いたんで、居眠りしてしまったとかかもしれないですけど。
*Eastern Dark–Celibate Riflesのベーシストだったジェームス・ダロッシュが結成したバンド。1986年のツアー中にバンドのバンが事故を起こしダロッシュが逝去し、解散した。
ツアーで行くとしてもパースは他の都市、メルボルンとかアデレートとかシドニーからもかなり距離がありますよね。
そうですね。Mach Pelican自体も元々パースの英語学校で出会ったメンバーが始めたバンドだったので、そういうのもあってパースには行けたんですけど。
オーストラリアへはメンバーチェンジする前と後で2回ツアーに行ってるんですけど、その時は Asteroid B-612のJohnny CasinoやPOWDER MONKEYSのTimとかそういう人たちもライブに来てくれてましたね。EXPLODING WHITEMICEのAndrewの家に泊めてもらったり。Gimmiesはハードロックの要素も強かったので彼らともサウンド的にも相性が良かったのかもしれないですね。90年代初頭のシアトルのグランジの人たちからもその辺の80sのオーストラリアのバンドはすごく人気があったみたいですね。
なるほど。やっぱりColoured Ballsとかも人気があったんでしょうか。
Coloured Ballsは70年代初頭のバンドなので直接の影響があったかはわからないけど、後続のオーストラリアのバンドには間違いなく影響も与えているから、そういう意味では間接的にはあるかもしれないですね。
そうそう、GODやSEMINAL RATSの人もライブに来てくれましたね。なんで自分らを観に来てくれたのって聞いたら「なんか好きそうなサウンドのバンドが来てるって聞いたから」とか言っててフランクな感じでしたね。チケットも3~5ドルとかで安いし、普通に酒飲みに来るついでに来てるっていうノリでしたね。
ちなみにオーストラリアのハコはアメリカよりもライブハウス然としてるイメージですね。わりとちゃんとしてるというか。アメリカは人の家の地下とかPAシステムがないようなとこもありますけど、オーストラリアは野外とか家でのライブはあまりない印象がありますね。
メルボルンとかだとTote Hotelが有名ですよね。
僕らが行った当時のTote HotelはAu Go-Go Recordsのブルースがオーナーだったんですよね。今もTote は存続してますけどオーナーは違う人がやってると思います。
当時のToteは騒音問題やビクトリア州のパブにおける酒類販売免許法に関する問題、それに関する裁判費用などの問題でブルースは疲弊してしまってて。それでもう辞めるしかないってなったんですが、それを知ったメルボルン中のロックファンからTote存続のデモが起きたんですよ。自分たちが思っている以上にToteは街の存在として浸透していたみたいで、デモに3000 ~4000人もの人々が集まってニュースになったり新聞の一面に載ったりして凄かったみたいです。
それは日本だとちょっと考えられないというか、すごい話ですね。
その時ちょうど自分は旅行でたまたまオーストラリアにいたのでデモにも誘われたんですが、当日はタスマニアへ行く予定だったので残念ながらデモへは参加できなくて。でも後から聞いた話ではデモの人たちが皆でAC/DCのIT’S A LONG WAY TO THE TOPを歌ってメルボルン中歩き回ったって話で。それ聞いて本当にすげえ国だなって思いましたね。
あとToteはジュークボックスも最高なんですよね。60年代から2000年代のオーストラリア中のロックの全てが入ってるんじゃないかみたいなやつで。オーストラリアのロックの魂が入っているみたいな(笑)。ステージの広さは下北沢Shelterと同じくらいだけど客席は2倍くらいある感じで、ちょうどいい広さというか。本当に素晴らしいハコでしたね。
それと今はやっているかわからないですけど、Rock Against the Workなる名物企画があって毎週火曜日の昼からライブをやってるイベントがあり、メルボルン中のお金が無いロッカーたちがライブをやりつつ、横にフリーBBQコーナーもあるみたいな日で(笑)
夢のような日ですね(笑)
あとよく覚えてるのが、2010年の1月17日にブルースの経営するToteの最終日にウェブラジオで中継がやっていたんですよ。2010年くらいってまだまだスマホも一般的ではなかったし、そういうのを気軽に聴ける方法ってまだあんまり無かったと思うんですけど、たまたま見つけて当時住んでた吉祥寺の家で聴いてたんですよね。そしたらメルボルンのDronesにGODのJoelが客演して”*My Pal”が最後の曲として演奏されていて。遠く離れた東京の部屋で聴いていた僕も、いろんなことを考えて感極まってしまいましたね。
*My Pal-ブルースのレーベルAu Go-Go から1988年にリリースされたTHE GODのファーストシングル収録曲。 当時メンバーは全員15~16歳だった。 アンダーグラウンドのロックやパンク音楽を愛する全てのオーストラリアの人々にとってのアンセム曲。
自分が日本に呼んだオーストラリアのバンドもメルボルンでは必ずToteでやっていたので、いつか行ってみたいですね。
オーストラリアの後に行くことになったアメリカツアーは何がきっかけだったんですか?
Bobbyteens のTinaの別プロジェクトでDeadly Weaponsっていうバンドがあったんですけど、彼らが日本ツアーをした時に一緒に回る機会があって、そこのギターだったLarryと仲良くなり、HIGH VOXと一緒に呼んでくれたんですよ。シアトルから入ってサンフランシスコから出る西海岸を南下するツアーでしたね。
どのようなバンドとライブをしたのですか?
Larryは元々ハードコア・パンク畑の人だったので対バンもその手のバンドが多かったですね。でもExploding Heartsの*あの事故の後のメンバーが始めたNice Boysとも一緒にやってるんですよ。結成してから2回目か3回目くらいのライブだったと思うんですけど、映画館で一緒にライブして。
*ツアー中の交通事故によりメンバーの4人中3人が亡くなってしまった。
結成したばかりでしたけど人気もあったしカッコ良かったですね。でもなんかこっちに対してはツンとしてるというか、うちらのハードロックっぽい要素の音楽性をちょっと小バカにしてる感じがあって、ちょっと寂しかったですけど(笑)
今は彼らも丸くなったって聞きますけど、当時はそんな感じでしょうね(笑)
そうですね。ちなみにこの日のギャラは1人ホットドック2つ と特大コーラでした(笑)
あとシアトルでは昼のライブだったんですけど、終わってから疲れが来て、ステージが低かったので腰かけてそのまま寝ちゃったんですよね。そしたらいつの間にか夜のライブが始まって、ハッて目を覚ましたら目の前でStaticsが演奏してて(笑)。なぜか全然お客さんいなくてそれにも驚いたんですけど、 ライブは最高でしたね。
Staticsが観れたのはうらやましいですね!
それとバークレーではGilmanでもライブをやったのも感慨深かったですね。呼んでくれたDeadly WeaponsとかTIME FLYSも出てて。今振り返ってみると結構面白い人たちとやってたんだなって思います。
当時だと日本で知られてないバンドだったりして見えづらいですけど、時間が経ってみるとちゃんとその時代のガレージの人たちとツアーが出来てる感じですよね。
そうですね。あとGilmanの便器は今でも自分が人生で経験した便器の中で一番汚い上に便座が無くてむき出しで、その上扉も無くて衝撃でした(笑)
自分もサンフランシスコに行った時は扉の上下が何も無くて、外からほとんど見えてるトイレがありましたね(笑)。アメリカに限らず、海外は意外とそういうトイレありますよね。流したら全部水が溢れてきたりとか(笑)
あとは面白い話があって、オークランドに行った時地元のスーパーに寄ったらアメリカ人の夫婦がジョージの着ているSupersnazzのTシャツを見て「Supersnazz好きなの?」って話しかけて来て。よく 見たらDead MoonのFredだったんですよね。
まじですか(笑)。それはすごい話ですね。
後々Fadeawaysのトヨゾー君がDead MoonのFredとToodyを日本に呼んだじゃないですか。その時に後の Wotzitで呼んでもらって一緒にライブをやったのですが、ジョージが楽屋でそのことを2人に話したら全く覚えてませんでしたけど(笑)。まあ10年くらい経っていましたしね。
今から10数年前ですよね。最近でこそ再評価されてますけど、その頃はDead Moonってそこまで人気はなかったですよね。
一部には熱狂的なファンもいたと思いますけど、全体で見るとそうだったかも知れませんね。でも全くあの感じでしたよ。Fredがあのとんがり帽子みたいなの被ってて。だから一発でわかって「Dead Moon だよね?」って聞いたら「Yes」って(笑)
普通は会いたくてもなかなか会えないと思いますよ(笑)
オーストラリア・USツアーはDionysus Recordsから2ndアルバムをリリースしてすぐのツアーですよね?
そうですね。前のアルバム出してから音源を色んなレーベルに送ってたんですよね。そしたらDionysus Recordsからのオファーが来たのでお願いしますってことになって。その後Sympathy for the Record Industryからも連絡があったんですけど、もうリリースは決まってたので断って。
Sympathyからオファーがあったのはすごいですね。
ただこの前ジョージと話したらSympathyの件は全く覚えてないって言ってたから、全然僕の記憶違いかもしれないんですけど(笑)
Dionysus RecordsはMC5のベースのマイク・デイビスの奥さんが当時働いてたんですよね。それで Gimmiesの1stアルバムの写真とかアートワークはMC5の Tシャツ着たり、コラージュみたいのでMC5が好きってのがわかる感じだったんですけど、彼女がそれを見て連絡してくれてマイク・デイビスにプロデュースしてもらえることになって。
それはとんでもない話ですよね…
レコーディングは当時YOUNG ONESのAzumi氏に頼んでいたので、録り音をいじれる状態で送ってマイク・デイビスに共同プロデュースで仕上げてもらうって形でアルバムを作って。その縁もあって後にDKT-MC5 名義でサマソニで来日した時に本人に会うこともできて嬉しかったですね。GimmiesのTシャツ送ったら着ている写真を送ってくれたりもして。
ダイレクトに影響を受けた人と一緒に作品を作れるのはすごいことですよね。
嬉しかったですね。自分たちでデトロイト・サウンドとは言ったことなかったんですけど、まあ言われて当然かなと(笑)。やっぱり意識はしていましたし。
でも後期のGimmiesはMC5的な要素は無くなっていきましたよね。
そうですね。Gimmiesの後半はメンバーも変わって、サウンドが変化したっていうのもありますね。アメリカツアーが終わった後にギターのカワベが脱退して、次のギターとしてRyder君が加入して。それからもう少ししてからシュウちゃんの後に入ったベースも色々あって辞めてもらうことになって、その後はヘルプを入れて活動していた時期もあったのですが、最終的に今はSLOWMOTIONSでベースを弾いているゼット(Ryota)が加入することになったんです。
ただ、こういう言い方は正しいのかわからないのですけど…どうしてもメンバーが変わるということは新しいメンバーにとっては当然ながら「Gimmiesに入る」っていう意識になってしまったのはきっと少なからずあったと思うんですよね。すでにバンドとしてライブをたくさんやって、音源もリリースしていたというのもありましたし。ある意味「こういった音楽性のバンド」ってある程度固定されたイメージのバンドに加入するというか。
それはどうしてもそうなってしまいますよね。
初期の頃はメンバーも高校からの友達でお互いに好きなことをあーだこーだ納得いくまで言い合って、それらが絶妙なバランスでまとまっていったのですけど、やはりその後は中々そうもいかなくて。良くも悪くも「僕だけ」が中心になってしまったというか。僕がその時々にやりたいことがGimmiesの方向性になってしまった気もします。
誰が悪いとかではなく、その辺りが時間を掛けつつも自分の中でかみ合わなくなってしまって。それでバンドの音楽の方向性も不安定になっていって、やりたいことも少しずつブレていったのかもしれません。でも結果として最終的なメンバーチェンジをした後の方が活動期間は長かったし、相性は良かったと思います。このメンバーで2回目のオーストラリアツアーも経験したし、リリースなども含め、楽しいことをめちゃくちゃ経験しました。
聴いてる側からすると不安定には感じませんでしたが、最後の方に連続してリリースしていたシングルは音楽性の幅が広がっている感じがしましたね。
最終期はロックよりもっと純粋なパンクロックに僕が戻りたかったっていうのはあります。そこはすごく意識していました。でもそのことも解散の理由の一つになったのかもしれません。7”で出す予定だった最後の音源も、解散が決まってしまったので結局お蔵入りしてしまったんですよね。本当はSecret Mission Recordsから出す予定だったんですけど。自分的にはその音源はその次に活動するWotzitにつながる要素もあって、自分の中ではすごく好きだったんですけど。
リリースしなかったのは勿体ない感じもしますね。
そうですね。今聴いても良いと思いますよ。でもそれってどんなバンドにもあり得る話だし、そういう風にお蔵入りになってしまった音源っていうのはきっと数えきれないほどたくさんあるのでしょうね。
確かに自分のバンドでもありましたね。結構気に入っていた曲だったけど録らないまま解散してしまったのとかは今でも後悔しますね。記録として残したいっていうのはありましたし。
そしてGimmies解散後はWotzitの活動を開始しますよね。WotzitはハードコアパンクやNo Waveの要素も強くGimmiesとはかなり音楽性が変わったと思うのですが、それは何故ですか?
大前提としてギターロック然としたパンクじゃないことをやりたかったっていうのはありました。Gimmiesを解散する時は次に何をやりたいかってのはビジョンとしては明確には無かったんですけど、もっと削ぎ落した、尖った、パンクロック然としたことをやりたいっていうのがありましたね。そこで東京に引っ越してきたex-ERAZER、当時AGGROのハットリ、ex-DIRTY IS GOD,TRIOのケンケン(脱退後は当時NO,Black & Whiteのメンバーだったシゲルが加入)を誘って。
最初のスタジオでみんなやりたいカバー曲を1曲ずつ持ち寄るってことになったんですけど、ジョージがWarsaw/Joy Division、ギターのハットリはLexicon Devil/Germs、ベースのケンケンはTrouble If You Hide/Freezeでしたね。 僕はなんだったか覚えてないんですけど(笑)
最初からGimmiesとは違うことをやろうっていうのは明確にあったんですね。
ロックのフォーマットで革命的に新しい音楽ってのはきっともう無いというか、少なくとも僕には想像がつかないんですけど、それでもとにかく自分がやったことのない音楽をやったことがないスタイルでやってみたかったっていうのがありました。結果的にどこかで同じようなことをやってる人はいるかもしれないですけど、自分が聴いたことのない音楽をやりたいというか。
カッコつけているみたいですけど、ロックンロールって何よ?ってなった時、StoogesとかVelvet Undergroundとかも世の中にわっと出現した瞬間は、異形の音楽過ぎてきっとあんなのロックンロールじゃない、音楽じゃないって言われてたんじゃないかな、と僕は思うんです。妄想かもしれないですけど。
で、そういった事の繰り返しでロックンロールは確実にカッコよくなってきたと思っているんですけど、そういうニュアンスでWotzitをやりたかったというか。それはカッコつけじゃなくて本気で思っていましたね。
当時の新しいことをやってた人たちの音楽を追従するのではなく、マインドとか動機を体現したかったということでしょうか。
体現するとかそこまで大それたことではなかったんですが、単純に自分がビックリするようなことがしたかったという感じですかね。特定の何かを真似したいっていうことでWotzitを始めたわけではなかったので。自分の中に元々あった要素を組み替えて、違う出し方をしてみたというか。
これはメンバーとも最初よく話してたことなんですけど、MC5とかからギターロックとしてストレートに影響を受けつつも、それらをジャズとか実験音楽的な側面からも切り取りって音楽を作りたいってい うのがまずありました。
Gimmiesはどこまでいってもやはりギターロックというかある種の型が出来上がっていたバンドだったので、そこからズレたというか、外れたタイプの曲を持っていってもメンバー受けが良くなく、ボツになったりすることもよくありました。
なのでWotzitの初期の曲、例えば「PAYDAY」なんかは最終期のGimmies で受け入れられなかった曲が原型としてあったりもして、個人的にはそこまで新バンドを始めるからいきなり生まれ変わったっていう感じでは無いんですよね。
確かに最後の方のGimmiesのライブを観ていたときはそういう雰囲気はありましたね。型を壊そうとし ているというか。
そう言われると嬉しいですね。表面的に見ると意外な変化と思われたかもしれないんですけど自分の中では最後の方のGimmiesと初期のWotzitは完全に繋がってるんですよね。ライブを観てた人は分かったかもしれないんですけど。それはもしかすると上手くやればGimmiesでもできたことだったのかもしれないですけど、解散に至るまでの色々な事情もあり結果的にはできなかったんですよね。
面白いって驚いた人もいたでしょうし、これまでのGimmiesのノリを期待してた人は拒絶感を持った人もいたでしょうね。
そうですね。「Gimmiesの次」な感じを期待して観に来てはくれたけど、残念ながらそれっきりライブに来なくなった人もきっといたんじゃないかと思います。人それぞれに趣味ってあるわけですし、それは仕方がない。でもそんなのこっちからしたら知ったこっちゃないというか(笑)
自分たちのやっているような音楽は、バンド自身が表現したいことを表現する部類の音楽ですしね。
短命でしたがWotzitになってからはそれまで自分が好きだった音楽を盛り込むことができたし、かつその後に好きになっていった音楽もブッ込むことができましたね。2019年にベースのシゲルが他県に引っ越すことになって解散してしまうんですけど、活動していた数年間は僕はすごい楽しかったですね。本当は僕はもっと続けたかったのですが(笑)
Soloist Anti Pop Totalizationハタさんとのコラボレーション音源のWAR/ZIT、Debauch Moodからの10インチ”kiiiro”なども短期間の内にリリースし、これからの活動も楽しみだったので解散は残念でした。
最近は新バンドも始めたとのことですが。
まだしっかりと形になっていないのでなかなかハッキリと言えることもないのですが、 去年からスタジオに入っているバンドが一つ、そしてもう一つ、昔からの友人とただただ楽しむためにやるバンドも始めようとしててもうすぐスタジオに入る予定です。
それは楽しみです。最後に最近聴いている音楽やアーティストを教えてください。
NICFITのアルバム!!めちゃくちゃ素晴らしかったです。最近聴いているものだとKurwsとかのエクスペリメンタルなサウンドとかPhewさんのMuteからリリースしたNew Decade、キム・ゴードンのソロ作品のNo Home Recordとかがすごいカッコいいなって。
いわゆるパンクロックではないのかも知れませんけど、めちゃくちゃパンクだなって思ってて。一番惹かれるサウンドはそういう何かなのかも知れません。自分がやりたい音楽も昔とはだいぶ違う形になってきている気がします。
なるほど。元々パンクやってた人がやる音楽って何やっても結局パンク的になると思うし、それがいいなと個人的にも思いますね。今日はありがとうございました。