ヴァンダ&ヤングの逆襲 前編

Vanda & Young in Easy Beats

text by Noroi Garcia / DJ, Norogaru Nite

“ヴァンダ&ヤング”とはご存知の方も多いと思うが、ハリー・ヴァンダとジョージ・ヤングの2人によるプロデュース&楽曲制作チームのクレジット名である。あまりにも有名なので説明するのもはばかれるが簡潔に記すと、60年代英国で活躍したオーストラリア発ロックバンド「The Easybeats」のメンバーで、今やガレージロック/ポップスの古典“Friday on my mind“の作者。そして何と言ってもモンスターバンド、AC/DC結成に立ち会った初期のプロデューサーでもある(ジョージはマルコム&アンガス・ヤングの実兄)。

今回は彼等の歴史を振り返りつつ、その発明したサウンドプロダクションや主に70年代にリリースされた、今でも愛されている素晴らしい楽曲を紹介してみようと思う。

当然既知な話や曲が出てくるでしょうが、「こんなんなんぼ話(流)してもいいですからね〜」とご容赦願いたい。

題に「逆襲」とあるからには、敗北なり失敗なりを一度経験するわけで、それはイージービーツ時代に由来する。

イージービーツはオーストラリアの移民達で結成されたバンドで、ジョージはグラスゴー(スコットランド)、リードボーカルのスティーヴィー・ライトはイングランドのリーズ出身だが、ヴァンダはオランダ出身。この為まだあまり英語が堪能でなかったヴァンダより、初期のジョージのソングライティングパートナーはライトであった。ブリティッシュビート愛好家やモッズ族に人気で、今でもダンスフロアを沸かせる“Sorry”(全豪1位)などはジョージとライトの共作だ。

バンドは豪の老舗音楽出版会社アルバートプロダクションズ(以下アルバーツ)と契約。65年のデビューからヒットを飛ばし瞬く間に豪トップバンドに。アルバーツの4代目社長テッド・アルバートの手厚いバックアップを受け、世界進出を狙うバンドはロンドンへ。

この頃にはもうジョージの作曲パートナーは、がっつりヴァンダに変わっており、さっそく世界デビュー曲にして永遠のクラッシック“Friday on my mind(わが心の金曜日)”(66年)が特大ヒット、「ヴァンダ&ヤング」の名が高らかに産声をあげる。が、この裏では後々禍根を残す出来事が発生していた。

当初テッド・アルバートによりプロデュースされたセッション音源に、レコード会社は「イマイチ」とリリースに難色を示す。おそらく音楽的素養はあまり無かったであろうテッドには気の毒ではあるが、慌てたバンドとマネージャーは、キンクスやザ・フーなどを手がけた名プロデューサー、シェル・タルミーに依頼、晴れて大成功となるのだ。

ここでのプロデューサー交代劇による契約のこじれが後にヴァンダ&ヤングにとって最大の厄(わざわい)となってしまう。またこの時イギリスツアーに出る前夜、新婚で子供をもうけたばかりのハリー・ヴァンダ(当時まだ20歳)の幼妻が睡眠薬過剰摂取で自殺未遂を起こしてしまう。結果論ではあるが、世界進出を試みてからバンドには不幸が付き纏っていたのだ。先に進もう。

“金曜日”のヒットを受けてローリング・ストーンズの前座で欧州、米国ツアーからオーストラリア凱旋公演と盛況だったものの、つまづきは続く。ツアー後メンバー脱退、ニューシングル“Heaven and Hell”は(超名曲ですけど)英国ラジオが放送禁止にしたおかげで全く売れず(“誰かがベッドで眠ってる”といった寝取られ系歌詞部分が、過激すぎるとアウト)、2ndアルバムは録音したものの契約問題で発売されないといった厳しいものであった。

こんな状況の中でもヴァンダ&ヤングの創造力はさらに研ぎ澄まされていく。

「女(男)とロックンロールで一晩中踊(ヤ)りまくろうぜ!」と身も蓋もない、若者が望む全てが入っている最強の狂乱シングル“Good Times“(68年)をドロップ。イントロからロールしまくるピアノはニッキー・ホプキンス(プロデュースしたグリン・ジョンズが連れてきたのだろう)、そして歌が入った後のギターのぶっといパワーコードは後のAC/DCを想起させる。サビで全部かっさらっていく強烈なシャウトは同じスティーヴでもライトではなく、たまたま隣のスタジオにいて歌わされたマリオット(Small Faces)の仕業だ。

因みにこのセッションにはまだ無名だったオリビア・ニュートン=ジョン(偶然にも豪人脈)も参加していて、他にも何曲かバッキングボーカルを務めている。

有名なエピソードだが、大好きな話なのでここでも書かせてもらおう。当時この時点でもうすでにロック/ポップス界の天上人であった、かのポール・マッカートニーがカーラジオでこの曲が流れた後、車を止めて公衆電話からBBCに「今の誰よ?!もう一度かけてくれ!」と電話したという。この曲を讃えるのにこれ以上のエピソードは必要ないだろう。

“Good Times”は中ヒットし、その後3rdアルバムをリリースするが、この頃からバンドの求心力が急激に落ちていく。推測するに理由は2つあって、まず1つ目は後々まで苦しむ事になるスティヴィー・ライトのドラッグ依存。もう1つは度重なるゴタゴタと金銭問題で音楽業界にほとほと嫌気が差してきたのだろう。ジョージとヴァンダは2人だけでロンドンに小さなスタジオを作り、制作に没頭するようになる。
そして実質上ラストシングル“St.Louis”(69年)を発表。4枚目のアルバムは、このシングルにヴァンダ&ヤングのデモ集を足したようなもので、かつての人気は回復できず。

イージービーツは最後にオーストラリアで、小規模な会場を回るツアーとTVショーに出演して解散した。

バンドが手にするはずだった“金曜日”のお金はいったいどこに消えたのか。

シェル・タルミー曰く「僕はテッド・アルバートと直接契約を交わしていたが騙されたよ。“金曜日“も他の曲のプロデュース印税も一銭たりとも彼は払ってくれなかった。自分がプロデューサーを降ろされた事をずっと恨んでたんだろうね。訴えようと思ったら彼はイギリスからオーストラリアに逃げたんだ。オーストラリアまで行って裁判するには莫大な費用がかかるのを知っていて諦めさせたのさ。この一件以来『やぁ私がバンドの代わりの代表者だ』ヅラして近づいてくる奴は一切信用しないと決めた。勉強になったよ。」とかなり辛辣だ。

ジョージとヴァンダには“金曜日”以上のヒット曲を生み出せなかったプライド、悔しさもあったであろう。当時のスタッフの証言によれば、リードシンガーであるライトのオージー訛りなど「生粋のイギリス人バンドではない」という業界の差別も少なからず感じたという。

ビートルズ、ストーンズ、キンクス、クリーム、ザ・フー、スモール・フェイシズ、ジミ・ヘンドリックス・イクスペリエンスetc…とんでもない怪物達がひしめきあう倫敦の密林で、容赦なくイージービーツは食い尽くされてしまった。

こうしてジョージの業界不信は決定的となり、彼はその後ほぼ表舞台に出る事はなく「ファミリー以外信じるな」と弟達(AC/DC)に鉄の掟を敷くようになる。

ヴァンダとジョージはここから約4年間、業界とマネージャー(マイク・ヴォーン。この人物が1番の元凶)を呪いながらも音楽制作は続け、レーベルごとにバンド名を変えて(Moondance,Paintbox,Haffy’s Whiskey Sourなど)単発のシングル等をリリースしていく。それは主にイージービーツ時代の負債返済の為であったが、遂には73年。失意の中故郷オーストラリアに戻る決心をする。

ここから2人の逆襲が始まるのである。

Harry Vanda(right, 1946-) & George Young(left, 1946-2017)

今でこそ熱心なファンズに発掘され、その筋の方面には知られているが、73年「Marcus Hook Roll Band」という誰も耳にした事がないバンドのアルバムがリリースされる。このバンドの実体は、イージービーツ後の空白期間(69〜73年)にコツコツレコーディングしていたヴァンダ&ヤングのプロジェクトで、結果これが2人による逆襲の狼煙第1弾作品と言える。当人達にそんな気概があったのかは不明で、和気あいあいと楽しみながら作業していたのかもしれないが。

レコーディングにはジョージの実兄アレックス・ヤング(ジョン・レノンが名付け親のポップグループ「グレープフルーツ」のメンバーでヤング家で最初にデビューした人)も参加。その素材をシドニーへ持ち帰り、まだAC/DC結成前の若きマルコムとアンガスがギターをダビングして完成させている。

このアルバムから先行シングルとしてリリースされた“Natural Man”(断然アルバムバージョンよりカッコいい)をまずは聴いてみて欲しい。

無駄を一切削ぎ落としたベースラインに、切り裂くようなギターリフが乗るグラムロックで、AC/DCのプロトサウンドがここでもう既に作られていた事がわかる。ファンなら気付くと思うが前半はまんまAC/DCの”Live Wire”(アルバム『T.N.T』収録)だ。

ジョージのボーカルはボン・スコット(AC/DCのシンガー)そっくりで、余談になるが、初期のAC/DCではボンの録音が終わった後(歌詞を変えたくてボンには無断で)ジョージが、ちょいちょい自ら歌って差し替えている。

少しこの曲のベースラインにこだわって話を広げてみたい。

この“ボボボボ♪”という、稚拙な説明で申し訳ないが、1小節に四分音符を4つ同じ音で、それをリピートするベースラインを以下面倒なんで「ボボボベース」と呼ぶ事にする。どのバンドでもスタジオで、このボボボベースの上にギターでピート・タウンジェンドばりのパワーコードリフ、ないしはブルージィーなフレーズをのせるとあら不思議、「AC/DCぽくね?」となるのは経験者ならわかってくれるはず。それだけ今ではAC/DCが売れて認知されているという証だ。

このアレンジはヴァンダ&ヤングがプロデュースしていた時代の(74〜78年)、AC/DCの多くの楽曲に使用されており(初期のAC/DCのベースのクレジットはマーク・エバンスだが、レコードのほとんどはジョージが弾いているから当然といえば当然)、おいおい紹介する他のアーティストに提供した曲にも多数流用されている。つまり、彼等が産み出したサウンドプロダクションの肝の1つと言える。

ではこのボボボベースはどこから着想を得たのか。本人達からしたら「シンプルにこれでイイんでないかい」程度の思いつきだったのかもしれない。が、勝手に考察めいた事をしてみよう。

実はボボボベースは“Natural Man”が初出ではない。先程サラっと書いたイージービーツのラストシングル“St.Louis”(大名曲)こそがそれに当たる。

かなりソウルミュージックっぽさもあるが、ボボボベースによるAC/DC的突進感は出てるし、高らかにホーンセクションが入ってくるイントロは、AC/DCの世界デビューど名曲“It’s a Long Way to the Top (if you wanna Rock’n’Roll)”のバグパイプが入る間奏部を私なんぞは思い起こしてしまう。

初めに結論から言うと、ジョージは100%取材に応えることはなく既に故人であり、ヴァンダも同じようなものなんで、決定的なボボボベース着想の答えはない。

ただイージービーツが活躍していた当時、似たような質感のベースラインはあるにはある。

例えばThe Spencer Davis Groupの“Gimme Some Loving”やThe Equalsのナンバー各種(“Green Light”とか“Viva Bobby Joe”)、そしておそらくロックフィールドではボボボベース世界的初ヒットナンバー、The Human Beinzの“Nobody But Me”(68年)など(他にもあるでしょうが私のサーチ力ではこれが限界です)。

また「彼等はモータウンの技が好きだったよ。タンバリンやシェイカー(マラカス)、ハンドクラップとかね。」という側近のスタッフの証言がある。そう言われてみるとMartha & The Vandellasの“Dancing in the Street”で、あまり動かないベースラインが曲を牽引している様もボボボの閃きの1つだったのかもしれない。

いずれもボトムがしっかりしたダンサブルなナンバーであり、”St.Louis”をそういった曲にしたかったアレンジの結果が、ボボボベースラインの誕生だと想像できる。

モータウンのワードが出たので小噺を一つ。モータウンの総帥ベリー・ゴーディ・Jrは69年、白人ロック専門のサブレーベル「Rare Earth」を興す。当時イージービーツの“St.Louis”を聴いたゴーディは一発でこの曲にヤられ契約、レアアースの第1弾シングルとしてリリースする。アメリカに”St.Louis”を初めに紹介したのはモータウンの創始者だったというわけだ。

マーカスフックロールバンドまで話を戻すと、ヴァンダ&ヤングはこのボボボベースを礎(いしずえ)にオージー流パブ&ハードロックを作りあげた。

彼等がAC/DCから一旦離れる前の、最後にプロデュースした『Powerage』(78年)収録“Rock’n’Roll Damnation”を聴いて欲しい。

マルコム&アンガスの最強のリズムギターが乗り、イントロからマラカスがグルーヴを与え、間奏のハリー・ヴァンダによるハンドクラップが曲を高揚させるといった、モータウンの技も存分に仕込まれている。私が思うボボボベースマジックが産んだ最高傑作だ。

AC/DCが後年メタル色が強くなってからも(手拍子やマラカスなどのヴァンダ&ヤングが好きだった小技が排除された)、例えば“Who Made Who”、”Thunderstruck”、“Hard As A Rock”などの主要曲に、ベースの音質はよりソリッドでタイトになったが、根幹であるボボボベースはブレずに、変わらず使われている。

繰り返しになるが、あまりにもシンプル過ぎるこのベースラインの上に、パワーコード系ギターリフを乗せる方程式を2人は作った。というか好んだ。これは「チャック・ベリーと言えばあのギターリックね(例ジョニー・B・グッドのイントロ)。」と、誰もが思い浮かべる様に、それに匹敵するロックンロールの大発明なのではないか(大袈裟かな)。

AC/DCの詳しい歴史と計り知れない影響力については今まで存分に語られてきて、もう“ホールロッタロージー”なので(どういう事?)必要ないだろう。

後編ではそれ以外のヴァンダ&ヤングの功績を紹介してみたい。

続く。