Interview-LUCA TIERI(ルカ・ティエリ) / イラストレーター/コミックアーティスト 前編

日本在住のイラストレーターとして様々な分野で活躍するLuca Tieri氏。国内外のパンク/ガレージバンドのアートワークや、サニーデイ・サービスのジャケットを手掛けるなど、音楽との関わりも深いLuca氏だが、イラストレーターとしてのこれまでの影響や変遷、彼の愛するアンダーグラウンドの音楽やシーンについてインタビューを行った。
また、8月3日からは東京都で個展『電撃Bit』を予定しており、最新のLuca氏の作品をダイレクトに感じとることのできる、またとない機会となっている。彼がインタビューで語ってくれたこだわりやテーマ、インスピレーションを受けてきた様々にイメージを膨らませて作品に触れてみると、さらに多様で豊かな線、表情がきっと浮かび上がって来るのではないだろうか。

LUCA TIERI 個展 ”電撃Bit”
2022年8月3日(水)〜8月14日(日)
※8,9日は休
〒111-0042 東京都台東区 寿3-14-13-1F
TOKYO PIXEL. shop & gallery

Pink bats(2022)

まずはルカ君、自己紹介とプロフィールをお願いします。

イラストレーター/コミックアーティストのLUCA TIERI(ルカ・ティエリ)です。1978年生まれ、出身は南イタリアのナポリの近くにあるトッレ・デル・グレーコという町です。 昔から絵を描くのが好きで、美術の高校を卒業してからはコミックの学校に行きました。

自分は90年初頭からコミックにハマっていたけど、当時特にイタリアではコミックや漫画は今ほどポピュラーではなく、サブカルチャーという扱いでしたね。

周りに同じようにハマっている人はいませんでしたし、コミックの学校に行ったのは周りに絵を描く人がいる環境にいたかったんだと思います。もちろんレッスンもだけど、先生たちの描いているところを見てるだけですごく楽しかったし、勉強になりました。

ルカ君の絵は音楽との関わりも深いですが、その頃から色々聴いていたんですか?

音楽は、高校生の頃にパンクが好きになりました。当時みんな聴いていたGreen Dayとかがきっかけですね。パンクもメタルも同時期に聴いていたけど、元々ポップなものが好きだったからパンクの方にハマっていきましたね。

当時、音楽に関するネットのチャットルームがあって、そこでScreeching Weaselが好きだというイタリア人に出会って、それがきっかけで『BAM!』いうマガジンの表紙を描くことになったりもしました。

BAM! MAGAZINE #4(2005)

僕の地元にあったMAGMAという小さいライブハウスに、Hüsker DüとGreen Dayを混ぜたようなことをやっているThe Real Swingerというバンドがよく出ていたんですけど、そのメンバーがアメリカのバンドをMAGMAに呼ぶことがよくあったんです。そこでScared Of Chakaとか観て好きになったり。

当時そのつながりで知り合ったSlovenly Recordingsのピートさんは日本にもよく来ていて、今は東京でよく会うので、面白いな、世界は狭いなと思っています。

その頃自分はまだ運転免許をもっていなくて遠出できなかったから、地元にそういう場所があってとても助かりましたね。音楽のセンスが近くて面白い友達が増えればいいなと思いもあって、よく通ってました。

そういう風にしてパンクにだんだんハマっていって。パンクバンドを観て知り合いや友達が増えていって、普段テレビで見るつまらない世界とは違う世界に入っていっているという感覚がありましたね。高校生の最後の方、コミックの学校に入る前の頃です。

だんだん絵と音楽が繋がってくるんですね。

そうですね。音源のジャケットを最初に書いたのは20才か21才の頃で、The Real SwingerとSquirtgunのスプリット7inch(The Real Swinger / Squirtgun(2000年))です。

The Real Swinger / Squirtgun (2000)

この頃から今もずっとですが、音楽を聴きながら絵を描いていますね。音楽からインスピレーションをもらっています。

もしかしたらパンクの影響で、当時は今と比べると激しくてアクションがダイナミックな絵ばかりだったかも。若くてトンガっていたし、分かってくれる人だけ分かってくれればいい、と思って描いていましたね。今はちゃんと多くの人に自分の作品が届いて欲しいと思いますよ(笑)

それで色んなジンやジャケットに絵を描いていくようになっていったんですけど、アメリカの人たちからもリクエストが来るようになっていきましたね。

イラストレーター/アニメーター/キャラクターデザイナーであるShane Glinesが運営していたウェブ上のフォーラムがきっかけで、ディズニーからアニメのコンセプトの提案をしてくれませんか?みたいなオファーもあったりして。その頃アメリカで最初の画集『Bubble Sketch Book』が出ました 。

Bubble Sketch Book (2006)

当時はイタリアではデザイナーとしても活動していました。Tシャツのデザインとか、ロゴを作るような仕事ですね。

その頃の大きな仕事では、日本でも人気があるミュージシャンだと思うんですけど、アメリカのJason Mrazというミュージシャンの”Jason Mraz’s Beautiful Mess – Live On Earth”のジャケと中ジャケのイラストを描きましたね 。

アートディレクターから歌詞の内容を表現するようなイラストを描いてほしいとオファーされて。作品は本人にも気に入ってもらえたし、面白い仕事でしたね。

それ以外にもアメリカのバンドとの仕事や交流はありましたか?

The Decibelsのアルバムのジャケを描いたり、来日もしていたThe Briefsのイタリアのレーベルから出ているシングル集のジャケなども描きました。

その頃までハマっていたタッチはアメリカの90年代のアニメーションやサブカルのコミック、例えば”ゴーストワールド”のDaniel Clowes、あとは、Jaime Hernandezとか。なのでイラストのタッチはその影響が強かったかもしれないです。

アメリカに行った時はスタジオなどからも遊びに来てと誘われたりして。時代的にFlashとかも出てきたころで、自分も興味を持ったんですけど、実際にFlashの製作者の現場を見たらつまらなそう、自分には合わないかなと思っちゃって…結局やらなかったですね。

あと、アメリカだと製作スタジオがL.A.だったり、ハリウッドの方が多くて、車社会だというところも僕にはハマらなかったです。

今は日本を拠点としていますが、アメリカを拠点にする事は考えなかったんですか?

好きなお店もバンドもたくさんあるけれど、何故か拠点にしようとは思わなかったです。良いとこだし、友達もたくさんいるけどね。

メッセージボードで知り合ったL.A.のアニメーター、日系アメリカ人のChris Mitchellという人がいるんですけど。彼はリトルトーキョーにある”Q Pop’‘というデザイン系おもちゃやアーティストグッズなどを売るセレクトショップをやっていて、日本にも何度も来ている人で。

彼の店では色んなアーティストの展示をやったりもしていて、僕も何度か参加させてもらいました。展示のテーマをまず決めて、それに合わせてアーティストが作品を描いたりすることもあったりして面白いですよ。

日本にはいつくらいから遊びに来ていたんですか?

最初は2004年に観光で行きましたね。一番の目的は音楽。東京のライブハウスでSupersnazz、Jet Boys、関西のNylonやDazesとかいろいろ観に行きました。

Nylon –  (2005)

日本に遊びに行っているうちに、坪内アユミさんと知り合いになって”VAMP!”にイラストを描くきっかけにもなりました。ライブハウスでは、みんなフレンドリーだし、日本語が通じなくても音楽についての話は盛り上がれましたね。僕が持っていた日本のイメージとは良い意味でギャップがあったりもして楽しかったです。

最初に日本に来た時は、東京は都会過ぎるなとも感じてて、関西方面の街の方が好きだったんですよ。でもその後東京の中央線沿線の文化が好きになって、それぞれの街の良さも分かってきて。それで2010年には日本で初めての個展を高円寺で開催することにもなりました。

あと、その頃は絵とは別に写真も撮っていたんですよ。常々、日本のアンダーグラウンドな音楽シーンが国外に知られていないのが勿体ないと思ってたので、イタリアで僕の撮ったライブ写真の展示をすることを計画していたんです。

THEEE BATや、サロメの唇、THE LET’S GO’s、デリシャスウィートスなどとフォトセッションをしましたね。でもイタリアにいるよりも日本にいる時間がだんだん長くなってきて、結局イタリアで写真展はやれませんでしたね。

THEEE BATのアルバムのブックレットの中にも1点そのときの写真を使ってもらったんです。 2010年以降はかなり頻繁に日本に来るようになっていたので、バンドとの交流も増えていきましたね。

日本に住み始めた頃の話を教えてください。

2012年から学生ビザで日本に住み始めました。日本語学校に入って日本語を勉強しながら、アルバイトでイタリア語も教えたり。今もいろいろ大変なことはあるけど、その時はもっと苦労してたと思います。

もっとちゃんと日本語を学びたいって思ったのは…それまで日本に来た時もみんな親切だったけど、当然外国人観光客として接してくれているという感じはあって。

日本に住むことになったら、もちろんそれまでのようにはいかないですよね。それに日本語が喋れれば、やっぱりもっと深い話ができるようになると思ったので。

言葉がわからない頃も楽しかったけど、日本語が喋れない外国人だと日本での付き合い方も限定されてくる。もっと深く接したかったから日本語を学ぼうと思いました。

Ramones(2010)

話が前後してしまいますが、元々日本に興味を持ったきっかけって漫画やアニメではなく、音楽だと言ってましたね?

はい。元々日本に興味を持ったきっかけは音楽です。もちろん漫画やアニメも好きだったけど、一番はバンドや音楽でした。僕自身、絵のタッチの影響は元々日本のアニメっぽくなくて、さっき言ったようにアメリカの影響の方があったんですよね。

当時は日本に来たからといって、日本の漫画やアニメに影響を受けすぎるのはなんだかな、という感じだったんですよ。でも自分の中でだんだん”線”が大事だ、重要だと分かってきたんですよね。それからは漫画家の先生の原画展などに行くようになりました。

大友克洋先生、江口寿史先生、土田世紀先生、萩尾望都先生などなどいろいろ見ました!なので自然と時間をかけて、今の自分の画風が出来上がっていったんだと思います。

デッサンなどで悩んだ時にはイタリアのTanino Liberatore先生に直接アドバイスを受けて、彼の言葉で”線”のことをより理解できました。Liberatore先生はRanXerox(※ランクゼロックス)で有名な、サイバーパンクのビジュアルに関してのゴッドファーザーです。

SFとかサイバーパンクの概念は、彼なしでは違っていたと思います。あの人がいなかったらターミネーターとかの映画のビジュアルのイメージは違っていたと思います。

※イタリアのSFグラフィックノベルシリーズ/登場人物の機械生物の名称。Tanino Liberatoreはフランク・ザッパの”The Man from Utopia”のジャケットも手掛けている

Zappa – The Man From Utopia(1983)

日本でも古くは葛飾北斎とかもそうなんですが、自分が好きな寺田克也先生、江口寿史先生とか大友克洋先生とかも、やっぱり線にこだわっているのが好きな理由です。

そういう意味では「このタッチは日本のタッチ」「このタッチはヨーロッパのタッチ」とかではなく、お互いの影響を受けてると思っています。

なので僕の絵をどう捉えてもらっても構わないです。僕の道は“線の道”なので。日本の先生たちもそうだけど、同時にMoebius先生、Sergio Toppi先生、Kirby先生からの影響も込めてあるので。Moebius先生と宮崎駿先生もお互いに影響を与え合っていたはずですし。

Moebius’s Comics
and How He Inspired Western Films

音楽でも同じような事が言えると思います。日本に来て以降、最近の活動についても教えてください。

2018年にイタリアの出版社からコミックを描いてほしいというリクエストがありました。カッコいい女のコとオートバイが出てくる話を描いて欲しいというリクエストだったんですけど。

スクリプトを送ったらヨーロッパにはない面白い作品だと言われて、200ページを超えるコミックを描きました。去年7月に『VECTA』(CONCONINO PRESS 2021年)がイタリアで発売されています。

VECTA (2021)

イラストだけでなく、もうちょっと自分の世界を紹介したいと思っていたので、コミックのフォーマットは最適だと思いました。コミックを描くって大変な作業。それでもマシーンのように何枚も描いていると、キャラクターと自分のちょうどいい距離感ができてくるんです。

コミックのメインはストーリーじゃないですか。自分が描いた作品だけど、話の流れに乗って更に広がっていく、面白くなっていく感じがあると思う。シンプルな線、タッチでも表現できちゃうのがヤバいなと。1つの絵というよりも、コマ割りなど映画のように作られていくのが面白いですよね。

僕は元々コミックの学校に通って、その後メインではイラストレーターとして活動していたけれど、描き込みすぎるよりシンプルな線で表現するという部分はコミックから学んだのかも知れません。

描き込み過ぎるといえば、日本では特に目的と手段が入れ替わってしまうことも多いというか。やりたい事より技術自体を重視してしまう傾向を感じる事があります。音楽やイラストでも、日々の仕事とかでも。

そうですよね。絵は線だけで立体的に見せる事だってできるんです。でもその想いが強くなったのは日本に来てからかも知れません。日本で80~90年代から活躍する先生からもダイレクトに影響も受けたので。

日本の先生たちとMoebius先生などとの相互影響はもちろんのことですけど、そういう意味では、繰り返しになりますが葛飾北斎は早くからそういう表現をしていて凄いと思いましたね。

現代は情報や技術が溢れているし、描き込むのが悪いとは思わないけれど、シンプルなやり方でどれだけ脳に訴えかけられるか、という事は大事にしています。なので、僕自身デジタルな技術にも頼りまくっているけど、それだけではダメだと思うし、知識と技術をちゃんと自分で選択して、やりたいことをやるってことが大事なのかなと思います。

後編に続く