DJ Takeuchi081の中南米音楽旅行記 その2

text by Takeuchi081-DJ/Ti Punch

今回はその1で書いたパナマ編の完結編です。ラテン界隈を席巻するレゲトンについても少々。ということで、いざ出発。

パナマの老舗レーベルDiscos Tamayoへ。レコードを買いたいと受付の女性に話しかける。英語が通じないのでrecords, vinilos, acetatosなど連呼しながら手で丸い輪を作ったりするも、困った顔をするばかり。記念写真を撮って退散。

気がつけば、もう夜。タクシーでホテルへ戻る。知り合いからパナマでタクシー強盗にあった話を聞いていたことを思い出す。

車内にMaelo RuizのJuegate a La Suerte流れている。運転手が歌いだし、間奏で口笛を吹く。サルサが好きで、中でもCortijoがお気に入りなんだそうだ。この人は大丈夫だろう。

数日してインターネットで知り合ったダンスホールレゲエのコレクターたちと会うことになった。彼らはディスコテカモバイル ( パナマの移動式ディスコ。ジャマイカでいうサウンドシステム) が全盛だった1990年頃からの熱烈なダンスホールレゲエファン。レコードコレクターでもある。

迎えに来たのはアブディエル。彼の車でリオアバホにあるシミウスの家へ向かう。古いパナマのレコードを売ってくれるのだそうだ。最近ディスコテカモバイルのセレクターから譲り受けたというレコードが庭のテーブルに積まれている。ポータブルプレーヤーで片っ端から聞いていく。

シミウスとアブディエル
リオアバホの景色

数時間してレコードを選び終えると、奥さんが食事を用意してくれていた。アロスコンポヨ、ポテトサラダ、タマル。カラフルな色から想像するより大分やさしい味が空腹に染みる。

シミウスがお土産に珍しい80‘sパナマレゲエの7インチをくれる。自分も日本から持っていったNahki(日本のダンスホールレゲエアーティスト)のレコードをプレゼントした。

アブディエルの相方ベトが来て、パナマレゲエの重要人物Renatoとアポが取れたという。中心部から車で1時間弱で彼のスタジオに到着。撮影用の部屋に通され、話を聞く。

ジャマイカ移民の子孫であること。1980年代の初等にElectro Discoというディスコテカモバイルのセレクターからキャリアを始めたこと。バージョン(レゲエのシングルのB面に収録されているインスト)にあわせて英語でMCをしていたが、段々とパナマ人が聞き取れるスペイン語になっていったこと。それがきっかけでプロモーターが出資してくれてスペイン語のレゲエのレコードをリリースしたこと。

以前「Reggaeton」という本で読んだのと重なる話も多い。何度もインタビューで聞かれているのかもしれない。

彼がスペイン語レゲエのキーパーソンであることに加えて、それがレゲトンというジャンルの誕生に関係していることも見逃せないポイントだ。

レゲトンとは、レゲエやヒップホップの影響を受けて生まれたラテン音楽のこと。チャートに登場して知られるようになったのは2003年頃だろうか。

時にその暴力的/セクシャルなイメージが賛否両論を呼びつつも、近年ではラテン音楽界のメインストリームであり、ラテン音楽ファンに限らない支持を獲得していると言っていいだろう。「Reggaeton」本では、パナマのスペイン語レゲエはそのルーツの一つとして紹介されているのだ。

Renatoは言う。「80年代にパナマではレゲエとラップをやっていたが、プエルトリコはラップだけだった。90年代になりプエルトリコのVico Cたちがいろんな音楽をミックスしたものをやり始めた。その頃はまだレゲトンという名前では呼ばれていなかった。2003年頃になってプエルトリコの音楽がレゲトンという名前でチャートに出てくるようになった。アメリカの一部であるプエルトリコの白人たちに比べ、ジャマイカ系で黒人の自分たちに投資する人はいなかった。おれらはシステムと戦っている。」

Renatoと

レゲトンの原型はジャマイカのダンスホールレゲエShabba Ranks / Dem Bowオケだと言われる。1,3拍オモテにキック、2拍ウラ4拍オモテにスネアがくるビートは、今もレゲトンの特徴そのもの。●ーー○●ー○ー(●がキック、○がスネア)と書くと分かりやすいだろうか。

1980年代末、パナマ侵攻の影響でアーティストがアメリカに移住したことで、パナマのスペイン語レゲエがニューヨークに飛び火した。これがレゲトンへの進化を一歩進めることになった。

彼らの多くがレコーディングをしたニューヨークHC&Fスタジオで、Dem BowをリメイクしたPounderというオケが作られる。(レゲエではオケをリディムと呼び、同じオケを共有したり、リメイクして使い回すことが多い)

PounderはNando Boom / Ellos beniaのオケとして作られたものだが、パナマ人プロデューサーのアイデアで、パナマのカーニバルで使われる打楽器ティンバレスが加えられたのだった。

このサウンドがレゲトンに引き継がれていくのだ。その後もプエルトリコでレゲトンのストーリーは続いていくが、それについてはまたの機会に。

数日して、ベトの奥さんの従兄弟だという縁でLornaに会うことになった。彼女は2000年代初期のPapi Chuloというヒット曲でレゲトン界隈でも知られている。

ホテルのロビーにやって来た彼女は、一見していかにもスターというような華やかさを感じさせる。かと思うと、自分のインタビューに一生懸命、丁寧に話してくれるから、すっかりファンになってしまった。

プロデューサーEl Chomboにピックアップされてキャリアが始まったこと、いろいろあって今は共に活動していないこと、(2016年当時)最新のシングルはジャマイカのTOKとのコラボであることなどを聞く。

自身の音楽をレゲトンだと思うか聞いてみる。「レゲトンというのはインターナショナルな呼び方というか、レゲエにマラトン(スペイン語でマラソンの意味)をつけた言葉で、最初はレゲトンとは何だか分からなかった。そういう音楽はレゲエと呼んでいた。」

ホテルを出て、彼女が新曲のプロモーションをするラジオ局に一緒に行こうと言われる。放送中なぜか自分も紹介され、片言のあいさつをする。

おどろいたのは、収録中にDJがライブミックスしていたこと。パナマのレゲエ系ラジオDJはディスコテカモバイルのセレクターの出身者が多いと聞いたことがあるが、その影響だろうか。放送がおわりLornaとまた会おうと挨拶して別れた。

Lorna
ラジオ局Fabulosaにて

そうこうしてパナマ最後の晩となった。ベトが家族と一緒にパナマ運河に行こうと車を出してくれる。危ないから、と窓を閉めるように言われる。

運河近くの旧アメリカ管理の地域へ。ここは安全だと窓を開け放つ。散歩する人、公園で遊ぶ人が見える。パナマで夜こんなに人が多いのを見たのは初めてだ。レストランで夕食。ベトに「おれらはお前のパナマの家族だ」と言われる。また来なくては。

Beto一家と

ホテルに帰りレコードなど買ったものを整理。先住民の民芸品が美しい。

空港へ向かうタクシー。名残惜しくて何度も振り返る。

この後はテキサスに向かう。

(続く)

Takeuchi081
DJ活動は二十数年。レゲエのセレクターをきっかけにカリブ・中南米音楽にはまる。レギュラーイベントSeduction Tropicale、メキシコのニューサウンドを追うSonidero Tokioのほか、来日アーティストのサポートやラテンフェスなどにも参加。パナマのレゲエ史を紐解くガイドブック”Reggae retro en Panama”はインディーズレコード店を中心に流通し完売したほか、東京大学のゼミや文化講座セミナーでレゲトン史についての講座を行った。トラックメイカーや、フレンチカリブ音楽のバンドTi punchのメンバーとしても活動中。