ダムドという名の深き森 -episode4
text by Tsuneglam Sam/YOUNG PARISIAN
前回述べたように2nd『MUSIC FOR PLEASURE』のセールス失敗によりSTIFFレコードをクビになった不運なバンドTHE DAMNED。アルバムに不満を持ったラット・スキャビーズはレコーディング後に脱退することとなった。そもそもラットと一緒にやりたくてバンドを始動したという理由もあってブライアン・ジェイムスもおって脱退。そして ルー・エドモンズ も去り、バンドは空中分解へ。因みにラットの脱退後から78年2月に解散することを決定するまでの代役を務めたのは元LONDONのメンバーであり、後にルー・エドモンズとTHE EDGEなどで活動し、THE NIPS、そしてADAM&THE ANTSのレコーディングにも参加し、最終的にはCULTURE CLUBのドラマーとして大ブレイクするジョン・モスである。彼はCLASHにも一時籍を置いてもいたのでまさにロンドンパンクの生き証人なのだ。
ちょっと脱線するが、このDAMNEDがいったん解散する78年2月のライヴ会場に観客の一人としてある日本人が居合わせていたようだ。
それはなんと寺山修司、その人である。
寺山修司がダムドを観た……これだけで興奮してしばらくは寝られないような事実ではあるのだが、残念ながら寺山はデイヴ・ヴァ二アンの白塗りやDAMNEDの見世物小屋的な魅力に惹きつけられたわけではないようだ。それはエッセイ集『歴史なんか信じない』収録の「パンクロックはロンドンの怪人二十面相だった」を読めばわかる。寺山はパンクに好意的ではあるものの、早くも陰りを見せ始めたそのブームを「パンクロックの敗北」と記し、氏ならではの言い回しで冷静に分析している。ここで興味深いのは、寺山がパンクを「古くさいロックンロールに逆行」と記している点だ。
後追い世代の我々にとってパンクは誰にとっても真新しいものに違いないと思っていたが、サウンドも曲の構造もテクニックも音響や機材面も発展(まさにプログレッシブ)していってた70年代のロックミュージック全体からしてみるとパンクロックというのは時代に逆行するものに他ならなかったのである。
我々は“原点回帰”や“初期衝動”という四字熟語の眩しさに目を奪われ、これまでそんな風に考えたことすらなかったが、プログレ側からみればパンクの方がよっぽど「保守的」であり、進化より“古き良きロックンロール”に戻ろうとする老害ならぬ若害だったのかもしれない。
脱線ついでにもうひとつ。私がとある著名な俳優さんと話した時のことを。この方は音楽 ―特にサイケやはっぴいえんどなど― にもかなり詳しく自らバンドもやってたりもする人物なのだが、氏がCAROLを初めて知った時に抱いた感情は……“ズルい”というものだったそうだ。ズルい……それがどういうことかというと、GSからニューロックへの移り変わりとともに育ちロックの進化過程をみてきたというのに、“またここに戻されるのか……”という気持ちだったそうだ。もしかすると、ある側面からみればパンクロックの誕生というのはこういう“ズルい”ことだったのかもしれない。
話を戻そう。それでも我々はパンクが大好きだ。
こうして一度は死んだかのように見えたDAMNEDであるが、78年後半から再始動に向かって蠢き始める。地獄に落ちた野郎どもが地上に戻る準備を即座に始めたのだ。ラットもバンドに戻り、キャプテン・センシブルはベースからギター&キーボードにチェンジ。代わりにベースをあのレミー・キルミスター(MOTORHEAD)やヘンリー・バドウスキー(ALTERNATIVE TV,CHELSEA)などが担当することもあった。しかしながら契約により「THE DAMNED」の名前は使えずLES PUNKSやTHE DOOMEDなどの名を名乗り活動を続けたわけだ。DAMNEDの長い歴史から見ると、この時期は3rd.誕生までの短い期間の“つなぎ”のように思えるかもしれないが、実はこの間の活動こそがパンクの……いやロックンロールの歴史上かなり重要な期間である。よって細かく記させていただこう。
1978年9月、ロンドンELECTRIC BALLROOMでのデイヴ、キャプテン、ラットがレミーとコラボしたTHE DOOMEDのライヴ。こちらはブートやYouTubeで聴くことができるのだが、まず選曲に注目を。
DAMNEDの1st., 2nd.のナンバーや『I Feel Alright』 (THE STOOGES), 『Looking At You』 (MC5)をレミーがダムドと演奏しているのもたまんないのだが、サイケとハードロックとグラムとパンクを全てつなぐ奇跡の曲HAWKWINDの『Silver Machine』を本家レミーと共にプレイし、更にはPINK FAIRIESの『City Kids』(MOTORHEAD『On Parole』にも収録)までもを演奏しているのだ。プロトパンクでプロトメタルとして最重要であるこれらの曲だが、ここであらためてサイケデリック~ハードロックとパンクが地続きであることを我らに知らしめてくれている。
カヴァーはこれだけに終わらない。パンクのふりしたコメディバンドでありSTATUS QUOのパロディバンドでもあるAlberto Y Lost Trios Paranoiasのキラーパンクナンバー 『Kill』 (CHAOS UKもカヴァー)を選曲するセンスは痛快であるし、今やキャプテンの持ち歌となってしまったエルトン・モテロの『Jet Boy Jet Girl』もこの時期からレパートリーに入っているのも見逃せない。こんな感じでちょっぴりフェイクなパンクをセルフパロディ的に、しかもカッコよくやってのけるのがキャプテン独自のセンスの良さである。そして3rdに入る『Second Time Around(Machine Gun Etiquette)』に『Anti-Pope』や『Smash it Up』のB面でラットが歌う『Burgler』なども既ににプレイされているのも要注意だ。
また、同年10月のヘンリー・バドウスキーを迎えてRoyal College Of Art London で行われたTHE DOOMEDのライヴも無視できない。こちらで特筆すべきはレミーを迎えてのヴァージョンを後に録音するSWEETの『Ballroom Blitz』をカヴァーしてることと、1曲目から『Teenage Dream』(82年、DAMNEDのシングル『Lively Arts』B面)がプレイされてることであろう。
単なる“夢の”or“奇跡の”セッションバンドと思われがちなTHE DOOMEDであるが、これらのセッションが生み出した子孫たちは現在も世界中で繁殖し続けることになる……それは後程述べるとして、話はTHE DOOMEDより前になるが、この解散期間には他にもメンバーそれぞれによる様々な活動が行われている。いち早くバンドを去ったラットはRat Scabies’ Runners、DRUNK & DISORDERLY、WHITE CATS、そしてあのVICUOUS WHITE KIDSなどのバンドで活動。一方キャプテンはCaptain Sensible and the Softies、KINGなどを。またデイヴはDOCTORS OF MADNESSに参加していたりもする。
あーーーこの辺も一個一個重要だし、結構音源もあるし、一緒にやってるメンバーもイチイチ書いておきたいのだが、wikiとかdiscogsみればわかるようなことを書きたくてこの連載やってるわけじゃないんで泣きながら省きます。
このように余曲折あった後にバンドは正式にTHE DAMNEDに戻り、ベーシストには元THE SAINTSの、そして後にMOTORHEADの弟分バンドとして知られるTANKを結成するアルジー・ワードが加入。これでまた強力な布陣となる(私が取材時に訊いた話ではキャプテンの最もお気に入りのパンクロック・シングルのひとつはSAINTSの「I’m Stranded」だそうです)。
そうして79年4月、THE DAMNED名義に戻った野郎どもはCHISWICKレコードと契約、名盤『MACHINE GUN ETIQUETTE』を遂にリリースするわけです!
本作はレミーとの交流の結果生み出されたに違いない『Love Song』でスタートし『Machine gun Etiquette』へと続くわけだが、この流れこそがUKハードコア・パンクに”直接的な”影響を与えたと思われる。
さて、また重要なラウンドが到来した。
本連載第3回まではDAMNEDのルーツを探ってきたが、本稿で伝えたいのはDAMNEDが後に与えた影響である。
私には前々から不思議に思っていることがある。SEX PISTOLSやCLASHなどでスタートした英国のパンクロックが、数年の間にハードコア・パンクへと移行するわけだが、サウンド的にはソレとアレがどうも「直系な継承」だとはすんなり思えないのだ。つまり70sパンクを単にスピードアップしてもああはならないんじゃないか?とね。間にUK SUBSやTHE PARTISANSなんかを挟むとはいえ、なんかおかしくないですか?
というわけでここでまた仮説です。
パンクムーブメントは一瞬にして燃え尽き、パンクは死んで(殺され)、トレンドはニューウェーヴに移行します。「楽器がヘタでもバンドは出来るぜ!」な精神はシンセサイザーだったりノイズ・ミュージックにとってかわるわけだ。でもね、そこに行きたくない者もいるわけですよ。シンセやダンスミュージックなんてやってらんないっていう不良性の高い輩(やから)がね。
そんな不良層の気持ちにリアルに響いてきたのが、MOTORHEADだったのではないかと。つまりは MOTORHEAD のスピード感と野蛮な魅力を従来のパンクにミックスさせ蘇らせたのがハードコア・パンクだったのではなかろうか。(一方でよりワーキングクラス感覚を追求したのがOiであり、より政治性を追求したのがアナーコ・パンク、そう考えるとわかりやすい気がします。)
もちろん全部のハードコア・パンクがそうだったわけではない。DISORDERなんかはちょいと違うかもしれぬ。だが少なくともDISCHARGEとGBHを聴けばMOTORHEADからの大きな影響を感じ取ることが可能である。
そしてそんな第二世代が身も音も武装するキッカケとなったのが、このDAMNEDとMOTORHEADの合体だったのではないだろうか。加速したくてしょうがない若者のたがをはずしたのは、DAMNEDとMOTORHEADの結託という事実と3rd『MACHIN GUN ETIQUETTE』によるものだったと私は信じている。
因みにGBHだが、彼らが『I Feel Alright』をカヴァーしてるのはDAMNED経由であろうし、ギタリストはDAMNEDの『STRAWBERRIES』のTシャツを着てもいるし、VoのコリンはフェイヴァリットアルバムにDAMNEDの1stをあげている。
また、DISCHARGEは地元ストーク・オン・トレントにて79年1月にDAMNEDの前座を務めている。77年のDISCHARGEアーリーdemoを聴くかぎりではまだRAWなKBDパンクだったことを考えると、彼らの加速にもDAMNEDは影響を与えているのかもしれない。
更に仮説を付け加えよう。これまた実際本人に訊いてみなければわからないことだし、残念ながらもう質問することもかなわないのだが、『Love Song』はMOTORHEADの『Ace of Spades』(80年)より一年リリースが早い。代表曲すぎてそんな疑いをもつのは失礼な気もしつつ想像するに、レミーとの共演の結果その影響で誕生した『Love Song』が今度はMOTORHEADに影響を与え『Ace of Spades』を生み出したのではなかろうか。イントロベースの暴走スタートと哀愁を帯びたメロディを聴き比べるにつけ、そんな妄想がとまらないのである。もちろんその前にMOTORHEADの『Overkill』がDAMNEDにおそらく影響を与えているだろうということも付け加えておこう。
話は前後するが、1979年 DAMNEDとMOTORHEADは再合体。MOTORDAMNという名義で『Over the Top』とグラムロックバンドSWEETのカヴァー『Ballroom Blitz』を録音。こちらは両A面でリリース予定だったが、レコーディング時に一同諸共酔っ払いまくったらしく、スタジオは壊れたヘッドホン、壊れたテレビ、壊れた窓、ひっくり返ったビールが散乱し、廊下のスプレーペイント、その他の食器、家具、ビリヤード台などの破損……と大惨事が巻き起こった結果、当初の予定は崩壊し、正式リリースもなくなったとのこと。おって『Ball Room Blitz』はDAMNEDの1979年のシングル『I just Can’t Be Happy Today』のB面に収録。『Over the Top』もコンピなどに収録されたが、コレがキッチリ両A面ですぐにでもリリースされていたら、後続のパンク、ハードロッカーにまた大きな影響を与えたはずだけに残念である。
以上、一回目の解散から3rdリリース時の期間がいかにパンクロック・ヒストリー的に重要かを述べてきたが、『MACHIN GUN ETIQUETTE』にはまだまだ書くべきことがある。というのも実はDAMNEDはこの3rd.からそれまでの彼らとは決定的に違うバンドへと変貌を遂げているのだ。それは単にメンバーチェンジが行われただけではない、では、その違いとは……
この続きはまた述べるとしよう。